現在、大河ドラマ「龍馬伝」が放送されていますが、その中に「上士」と「下士(以下郷士とする)」という身分の差が描かれています。なぜこのような身分ができたか。その由縁は戦国時代までさかのぼります。
西暦1600年関ヶ原で天下分け目の合戦が行われました。西軍の石田光成対東軍の徳川家康が戦いました。ご存知の通り、合戦は東軍の圧勝で幕を閉じます。そのとき土佐(高知県)の大名、長宗我部盛親は西軍に属し所領を没収されます。そして、新しく東軍側から土佐へ派遣されたのが山内一豊でした。
そこで問題になったのが、長宗我部盛親のときからいた侍たちの待遇でした。長宗我部家が築き上げた屈強の一領具足隊を追い払うことは困難であり、懐柔策が必要でした。そこで考え出されたのが、上士と郷士という二つの身分を確立することでした。徳川から派遣されてきた侍は上士とし、今までいた侍たちは郷士として上士よりひとつ身分を下げるかわりに土佐に住んでもよいという取り決めがなされました。その伝統が幕末まで続くことになり、龍馬伝でその様子が表されているわけです。上士と郷士という身分の差は他の藩でも存在していましたが、土佐藩は特に差別が厳しかったようです。
ちなみに上士は幕末の後の明治政府の重鎮板垣退助や後藤象二郎がおり、やっぱり明治維新後も差別は続いたのかと思わされる結果となっているんですよね・・・。そして史実では武市半平太は郷士ですが、白札という特別待遇で上士同然に扱われていたようです。なんとなく大河での武市の服装や屋敷は他の郷士と比べてリッチな感じがします。今年の大河はなかなか細かいところも点けている気がするなぁ。
2010年2月3日水曜日
斉藤道三
卒論の提出期限が迫っていたので最近はまったく更新していませんでしたね・・・。やっと卒論が完成したのでまた、ブログ再開です。
美濃の蝮の異名をとる斉藤道三は美濃(岐阜県南部)の戦国大名です。ちなみに道三の娘である帰蝶は織田信長の正室です。一介の油商人から美濃一国の戦国大名にのし上がったという「下克上」を体現した人物でもあります。彼はかつての主君である土岐頼芸と争い、また隣国の信長の父信秀ともしのぎを削って自分の領土を獲得していきました。彼には美濃三人衆という優秀な部下がいたのですが、決定権は道三一人に委ねられ独裁思考の人間であったことが伺えます。
そんなワンマン社長ばりの道三ですが、思いがけない落とし穴にはまってしまいます・・・。彼は自分の嫡男である義龍は大名に向く器ではないとみなし、いつしか軽蔑するようになっていました。そしてそのかわりに弟達ばかりをかわいがっていました。内心穏やかでない義龍のもとに旧土岐家臣の者から「義龍様の本当のお父上は土岐頼芸公なのです。」と宣告されます。道三の日頃からの冷たい態度はそれが原因だったのかと納得し、義龍はその話を信じます。
そして、義龍は家臣団と決起し道三を城から追い出して成敗しようとします。約2万の兵を動員した義龍側は、旧土岐家臣の者達を中心に、主家を乗っ取った恨みと称して本気で道三をつぶしてやろうと意気込んでいました。対する道三側は、2500の兵士しか集まらなかったのですが、ここが死に場所と道三の危機を幾度と無く支えてきた家臣たちの士気は並々ならぬものがありました。また、道三はあのうつけものになど負けるものかと勝利を確信していました。決戦の火蓋は切って落とされ、義龍の大群は圧倒的有利に道三側を飲み込んでいきます。義龍の名采配を目の当たりにし、道三はこれまでの義龍に対する人物評価が誤りであったことを認めざるを得ませんでした。そして、戦は義龍側の圧勝となり道三は討たれました。(享年63)
ワンマン経営の一匹狼社長は、仕事のストレスを息子にぶつけ、それに我慢しきれなくなった長男がついに切れて・・・というワイドショーのような波乱劇を演じてしまった斉藤道三ならびに斉藤家。家庭の問題は現代でも戦国時代でも変わらないものなのでしょうか。
<戦国武将パラメータ>
統率88 武勇85 知略92 政治65 義理05 魅力60
特徴:野心家、ワンマン、非家庭人
この武将を評価する点
・蝮の名に違わぬ野心家・戦上手・謀略に長ける