2011年4月30日土曜日

高橋紹運




 高橋紹運は、九州で名高い武将です。その人間性と武勇、知略は当主やその主将を追い抜くほどです。主将の副官という立場でありながら、なぜ今日まで謳われる人物となったのか、今日は高橋紹運について書いてみようと思います。

 高橋紹運は豊後(現在の大分県)大友家第20代当主・大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれます。大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、これに豊前(現在の福岡県東部)や筑前(現在の福岡県西部)、肥前(現在の佐賀県、長崎県のほとんど)の国人が連携して反乱を起こしました。このとき紹運は、父と兄とともにこの反乱を鎮圧しました。その後、豊後の次代大名の大友宗麟によって高橋氏の名跡を継ぐことを命じられ、姓を高橋と改め、名も同時に紹運と改め、岩屋城と宝満城を与えられました。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役を務めながら筑前の支配に貢献しました。しかし、この頃から大友宗麟はキリスト教に傾倒しその名君ぶりは、影を潜め、内政をおろそかにするようになりました。そして、他国に侵略を許すようになっていくのです。

 天正6年(1581年)耳川の戦いで勝ち続けていた大友氏が薩摩(鹿児島県)の大名、島津氏に大敗を喫し衰退し始めると、肥前の大名、龍造寺隆信と筑前の大名、秋月種実は大友氏への進行を開始します。このとき宗麟は日向(現在の宮崎県、鹿児島県の一部)と筑後(現在の福岡県南部)で戦っていたために、高橋紹運が居住する筑前に援軍を送れませんでした。紹運がこもる城は孤立無縁な状況に陥りました。そこにつけいった、筑紫氏と秋月氏両大名は、紹運のいる筑前に攻め込みます。しかし、紹運は数では圧倒的な不利な状況を持ち前の知略で、援軍が来たと偽報を流し敵の混乱を誘っては、退路に味方の旗を立てさせさらに混乱を誘うという戦術を屈指し、立花道雪と協力し持ち前の武力を持ってこれを見事に打ち破ります。

 この頃から立花道雪と高橋紹運は、親交を深めていきます。互いに大友家に忠誠を誓う有能な武将だけに意気があったのでしょう。その様子はさながら実の親子のような関係であったと言われています(道雪は紹運の35歳年上)。そして、道雪は嫡男がいないことから、紹運の嫡男、統虎を婿養子として迎え入れたいと申し出ます。統虎は文武に秀で、高橋氏の跡取りとして申し分ない素質を持っていたために紹運は悩みますが、名家立花氏の存続のため、そして共に死線を潜り抜けて来た戦友のためにこの要求を呑みます。このとき息子との別れ際に「道雪殿を実の父のように慕うように」と言い、「もし、当家と立花家が対峙したときには迷い無く私にこの刀を抜け」と言って一振りの脇差備前長光を渡し、訓戒しました。
 
 天正12年沖田畷の戦いで龍造寺氏が島津氏によって討ち死にすると、大友氏は筑後奪回に向け立花道雪と高橋紹運を筑後に送りました。しかし、天正13年に主将である道雪が病死すると、事態は急変します。もともと耳川の戦いで重臣のほとんどを失っていた大友氏は、完全に浮き足だし、さらに本隊とは離れた場所にいたために援軍の期待もできず、兵士のほとんどは戦わずに逃げていきました。そこへ再び筑紫氏が宝満城に攻め入ってきましたが、紹運は残ったわずかな手勢で獅子奮迅の采配を行い何とかこれを追い返します。しかし、残った紹運の手勢はわずか700余名。次の戦で勝てる見込みは限りなく低い状況となってしまいました。

 
 そして天正14年島津氏は2万の大群を率いて大友氏を殲滅せんと、紹運の籠る岩屋城に攻め込んできました。紹運は主君大友氏を守るために、籠城し時間稼ぎをすることを決意します。戦が始まると、島津の大群を鉄砲、弓、石を猛烈に浴びせては、門を開けて打って出て、遊撃戦術を屈指し甚大な被害を与えました。戦の最中島津氏は降伏勧告を送るために、島津軍の一将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分 証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は敵味方見守る中櫓の上から、「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家 が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁 義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵方の島津軍からも感嘆の声が上がったといいます。しかし、籠城も半年が経過し水の手を切られ、兵糧も底を突き、紹運方の兵が傷の無いものはいないという状況になりました。紹運は豊臣軍が九州に迫り、大友の味方をしてくれるとことを聞き、十分に時間を稼いだと言う事実を聞かされます。そこで、紹運は玉砕を覚悟で最後の突撃を行います。紹運自身、大太刀を振り回し17人の島津兵を切りつけますが、ついに力尽き、紹運方は敵兵3000人を道ずれに全員討ち死。紹運も討ち取られました。(享年39歳)
 目論見道理、島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまいます。全員玉砕しましたが、紹運の命を賭した徹底抗戦は大友氏存続を守ることに成功しました。

 岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われました。攻め手の総大将島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったも のだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに…」と諸将とと もに涙を流し手を合わせたと伝わっています。大友家はその後も彼の働きにより存続し、大友家は江戸時代まで続くことになります。

 最後まで紹運方の兵は逃げることなく戦い続け、戦場に散っていくわけですが、たった700人の兵で敵方の兵3000人を討ち取ると言うのはなかなかできることではありません。また、半年の間に一人も脱走者がでなかったのも主従関係に類稀な信頼関係があってなせることでしょう。

 他にもこんな逸話があります。彼の正妻は病気で顔が醜くなってしまい、結婚を断ってきたのですが、彼は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま妻として迎え、その仲睦まじく、四子を儲け、家臣からも母のように慕われたといいます。

 三国志の諸葛遼孔明の妻も醜い人だったのですが、彼もそのように内面の美しさをとったようですね。彼の人間性には敬服せざるを得ません。
 
 <戦国武将パラメータ>
 統率90 武勇92 知略90 政治60 義理100 魅力99
 特徴:統率、武勇、知略共に優れている、敵からも賞賛される人間性、高い忠誠心

 この武将を評価する点
 ・欠点が無い・男の中の男・悲運の名将