2018年5月7日月曜日

孔子伝 後編

『孔子の若年期 30才まで』

孔子3にして立つ

 婚姻してから、孔丘は自分の国に戻るよりも学校を立ててそこで、色々なことを自分も学びながら色々なことを教えていきたいと思うようになります。この頃から弟子をとるようになり、しばらく周の国に遊学に行きます。そこで、李耳(後の老子)という老人に会い、周の国に古くから伝わる書物(武王や文王の事など)を読まないかと提案されます。そこで、色々な書を弟子たちと飲食、睡眠を忘れるほど読み漁り続けます。また、博学の李耳と今の世の中に必要な事とは何か、孔丘がこれから何を目指していかなければ行けないのかというようなことを語り合います。そして、孔丘は大道(人として志すべき理想)を知ります。「孔子30にして立つ」です。

『孔子の壮年期 襄公追放まで』

孔子を陥れた男 少正卯

 久々に魯の国に帰ってくると国内は賭博(闘鶏)に力をいれれば経済がよくなるのではという、少正卯(しょうせいぼう)の提案により庶民から国王である襄公までもが賭博に夢中になるという異常事態を引き起こしていました。孔丘は襄公や三桓氏に賭博を今すぐにやめるように進言しますが聞き入れてもらえませんでした。益々賭博の熱は高まっていき、最後には襄公の全財産と三桓氏の全財産をかけた闘鶏が行われることになりました。お互いが負けられないため、いかさまをしようとたくらみますが、企みが公になってしまい、この闘鶏試合は無効になります。しかし、この闘鶏にかけていた庶民たちはお金が戻らないことに腹を立て一気に暴動の火種となって魯国中を混乱の渦に巻き込みます。そこで、三桓氏はすべての罪を襄公にかぶせ、この混乱をおさめようと画策します。襄公はこの策に成すすべなく、従いざるをえませんでした。古くからの家臣の中にも襄公についてくるものなど誰もいませんでしたが、孔丘と弟子たちは義に背くわけにはいかないと、襄公と共に斉の国に行きます。孔丘が36のときです。
 
『孔子の壮年期  季孫意如の死まで』

季孫意如の死は孔子にも深い影響を及ぼした

 斉の国に渡ってからというもの、特に政にも参加することなく、歓待を受けるのですが、女と酒に浸り続ける体たらくな日々が続きます。孔丘もそんな日々に飲まれてしまいます。ある日、子産氏から法律が書かれた鼎(かなえ) が送られてきます。それは子産氏が死んだら孔丘に届けるようにと言ってあったもので、子産は孔丘に国内の治安を安定させるには法律は不可欠という助言をしており、孔丘も納得していたのですが、鼎はその事を思い起こさせるものだったのです。孔丘はその鼎を見て今の自分の姿を猛省し、再び国内に思いをよせるようになります。しかし、襄公が病になり、斉国にて看病してくれるのは昔からいる世話役と孔丘のみでした。そして、襄公は孔丘に「誠の忠臣はそなたのみだったな。」と言い残しこの世を去ります。その後、孔丘は襄公の亡骸を魯国に運び込みむために魯国に戻りますが、すでに新王が擁立されており三桓氏による更なる独裁と内政の混乱が甚だしい様相でした。三桓氏筆頭の季孫氏は重い病に患わされいました。季孫氏は襄公を追い出したことを後悔していました。襄公を、追い出したことにより更に混乱がひどくなったためです。孔丘は季孫氏の想いを知り、後に博学卓識の季孫氏でも邪念に勝てなかったのかと嘆いていたと言いいます。また、襄公の棺をもって帰ってきたときに三桓氏はなぜ今さら戻ってきたのだ、我々が悪いことをしたみたいではないかとしらをきるような発言をしているときに季孫氏だけは孔丘は誠の忠臣だ。葬儀は行わなければいかんといったと言います。また、孔丘を季孫氏の息子の季孫斯(きそんし)に人としての道を教えてやってくれといい、息を引き取ります。

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