2018年6月9日土曜日

斎藤道三 再考


美濃の蝮の本当の姿とは?

 前回でも斎藤道三の記事を書いているのですが、自分の地元から近いこともあり、再び深く考えてみることにしました。そこで前回は非家庭人であると評していたり、一介の油商人と評していたり色々と認識が甘かったのではないかと思い、再び記事にしてみました。

 『一介』の油商人ではない
 前回は一介の油商人と言っていたのですが、その実、京都にある奈良屋という京都有数の商家に婿入りしていました。そこで稼いだ莫大な資金は、後年美濃を自分の手中に納める際の軍資金にしていました。因みに婿入りする前は寺で坊主をしており、そこでの学問と剣術の成績は群を抜いていたと言われています。

  非家庭人ではない
 前回は息子に裏切られて、家臣達から謀反を起こされて命を落とすのですが、息子である義龍含め家族をとても愛したそうです。特に京都にある油屋と美濃での侍としての二重生活をしていたのですが、両方に奥さんを持っていたのにも関わらず、円満な家庭環境を作っていたそうです。最終的には、家臣達の讒言にそそのかされた義龍に殺されますが。そう言ったことは戦国の世では珍しくないことであったようですし、何よりも道三自身がやってきたことであったので因果応報と言えるでしょう。

  『楽市楽座』を他者に先駆けて先行して実施
 よく信長が実施したように考えられているのですが、先に考案したのは道三のようで、油屋時代の腕をならしていた頃にこうなればやり易いと思ったことを自分の居城である岐阜城(当時は稲葉山城という)の城下で行ったそうで、各地の商人がこぞって岐阜(当時は美濃という)で商売をしたいと思いやって来て賑わっていたそうです。

 以上のように道三は野心家ではあったのですが、家庭人であり、先見性のある革命児であったのだと思います。また、自分一人で成り上がった非常に能力の高い人物だったのでしょう。そして、道三の野望は彼の義理の息子信長に引き継がれていくことになるのです。
 余談ですが、道三の甥に当たるのが明智光秀だそうで、信長も光秀も道三との関係は深かったのだといえます。そのことで、司馬遼太郎なんかは道三の坊主時代から培った『古き教養』の部分を受け継いだのが明智光秀であり、同じく道三の『時代の先をいく先見性』を受け継いだのが信長であったと言っているのですが、うまく言ったものだと思います。その二人が本能寺の変を引き起こすのですが、それも道三の生き様から習っていたのかもしれません。