ぜひご覧ください。
2019年9月22日日曜日
2019年9月18日水曜日
大河ドラマの好演俳優リスト(2007年放送 風林火山編)
私は、歴史が好きですのでよく大河を見るのですが、主役はもちろんの事脇役の方の名演技に感動することがよくあります。そこで今回は、風林火山(2007年)の作品で武将のキャラと俳優のキャラがベストマッチしたケースをご紹介しようと思います。
『板垣信方(千葉真一)』
板垣信方は、武田家の重臣で両職の一人と言われています。武田信玄の父である武田信虎を追放後は、武田家の屋台骨的な存在で中核を担っていた存在です。しかし、板垣は武田信玄が村上義清との上田原の戦いで先方となり初戦は勝利しますが、逆襲を受けて討死します。そんな屋台骨的な頼りがいのある板垣を千葉真一は見事に演じており、最後の討死のシーンは圧巻です。
『宇佐美定満(緒形拳)』
宇佐美定満は上杉家の軍師で、上杉謙信に仕えました。宇佐美定満は上杉謙信の若かりし頃から存在し、謙信を軍事の面でサポートした頼れる切れ者です。宇佐美定満は謙信と抗争していた、長尾政景を暗殺するため野尻湖へ舟遊びに誘い、船底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈み死亡したとされています。そんな忠義に厚い宇佐美定満役を緒形拳が熱演しています。出番はあまり多くないですが、要所をしっかりとしめるような画面に映るだけでも存在感があります。
『上杉謙信(GACKT)』
風林火山で一番異例の抜擢で、なおかつ一番異彩を放っていたのがGACKTでしょう。ミュージシャンが上杉謙信をやることは今後ないと思いますが、それぐらい異例の配役であるのに関わらず、ハマっていました。上杉謙信の神々しいまでに強く、気高い感じがGACKTの人間離れしたような雰囲気にマッチしたのでしょう。今の若い人はGACKTというと芸能人格付けチェックという番組で出ているくらいにしかわからないかもしれませんが、当時は彼のような若い、イケイケのロックミュージシャンが謙信役をここまでこなすことに誰も想像だにしなかったように思え、一番意表をつかれたという印象を強く受けました。特に小田原の戦いで謙信が小田原城の門の前で相手が矢や鉄砲を撃つ中一人酒を悠々と飲み、その姿に相手の北条氏康が「我々はあんなやつと戦っているのか」と嘆き一度も門の外に出なかったというエピソードが一番好きです。
以上で風林火山の好演俳優紹介を終えます。なかなか粒ぞろいな配役で面白かったですが、自分としては武田信玄が残念で、感情移入できなかったのを覚えています。それ以外のキャストは素晴らしかったのですが。。。
『板垣信方(千葉真一)』
板垣信方は、武田家の重臣で両職の一人と言われています。武田信玄の父である武田信虎を追放後は、武田家の屋台骨的な存在で中核を担っていた存在です。しかし、板垣は武田信玄が村上義清との上田原の戦いで先方となり初戦は勝利しますが、逆襲を受けて討死します。そんな屋台骨的な頼りがいのある板垣を千葉真一は見事に演じており、最後の討死のシーンは圧巻です。
『宇佐美定満(緒形拳)』
宇佐美定満は上杉家の軍師で、上杉謙信に仕えました。宇佐美定満は上杉謙信の若かりし頃から存在し、謙信を軍事の面でサポートした頼れる切れ者です。宇佐美定満は謙信と抗争していた、長尾政景を暗殺するため野尻湖へ舟遊びに誘い、船底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈み死亡したとされています。そんな忠義に厚い宇佐美定満役を緒形拳が熱演しています。出番はあまり多くないですが、要所をしっかりとしめるような画面に映るだけでも存在感があります。
『上杉謙信(GACKT)』
風林火山で一番異例の抜擢で、なおかつ一番異彩を放っていたのがGACKTでしょう。ミュージシャンが上杉謙信をやることは今後ないと思いますが、それぐらい異例の配役であるのに関わらず、ハマっていました。上杉謙信の神々しいまでに強く、気高い感じがGACKTの人間離れしたような雰囲気にマッチしたのでしょう。今の若い人はGACKTというと芸能人格付けチェックという番組で出ているくらいにしかわからないかもしれませんが、当時は彼のような若い、イケイケのロックミュージシャンが謙信役をここまでこなすことに誰も想像だにしなかったように思え、一番意表をつかれたという印象を強く受けました。特に小田原の戦いで謙信が小田原城の門の前で相手が矢や鉄砲を撃つ中一人酒を悠々と飲み、その姿に相手の北条氏康が「我々はあんなやつと戦っているのか」と嘆き一度も門の外に出なかったというエピソードが一番好きです。
以上で風林火山の好演俳優紹介を終えます。なかなか粒ぞろいな配役で面白かったですが、自分としては武田信玄が残念で、感情移入できなかったのを覚えています。それ以外のキャストは素晴らしかったのですが。。。
2019年9月15日日曜日
孔子のライバル 陽虎
季孫意如の家老だった陽虎は季孫意如が亡くなると、公山不狃と仲梁懐という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。その状況から孔子を陥れようとしていた少正卯は孔子は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔子と陽虎達を戦わせ、孔丘が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔子は陽虎の軍と戦うことになります。孔子も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔丘軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では長い間、祖国から離れて行軍していたものが多く士気が低下していました。また、孔子の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、孔子軍の大勝利で終わります。
少正卯の目論見は外れて、陽虎の敗走軍は次の一手を思案していると、少正卯が小姜と小虎という陽虎の妻と息子を連れてきました。この二人は、陽虎のことを大変憎んでいるのだということを陽虎に伝えました。陽虎は何か自分にとって不都合なことがことがあるとこの二人に暴力をふるって憂さ晴らしをする癖があり、そのため2人の家族は陽虎のことを心底嫌っていました。陽虎はこのときもいつもと同じようにこの2人に暴力を働きました。そして、この二人をその場に置きざりにし去っていきます。この二人は瀕死の状態で孔子の軍に保護されますが、陽虎はそれから追っ手に追われて魯国から逃げて、宋・晋を転々として、晋の趙鞅に召し抱えられました。趙鞅は全家臣の反対を押し切って陽虎を召し抱えてました。陽虎の統率力と政治能力を高く買ったのでしょう。これを恩に感じた陽虎は趙鞅に忠誠を誓い懸命に仕えたそうです。また、このとき魯の国を出た孔子に再会し、孔子の弟子たちの力を知っていた陽虎は孔子を晋の国に来ないかとさそいますが、孔子は断ったといわれています。
少正卯の目論見は外れて、陽虎の敗走軍は次の一手を思案していると、少正卯が小姜と小虎という陽虎の妻と息子を連れてきました。この二人は、陽虎のことを大変憎んでいるのだということを陽虎に伝えました。陽虎は何か自分にとって不都合なことがことがあるとこの二人に暴力をふるって憂さ晴らしをする癖があり、そのため2人の家族は陽虎のことを心底嫌っていました。陽虎はこのときもいつもと同じようにこの2人に暴力を働きました。そして、この二人をその場に置きざりにし去っていきます。この二人は瀕死の状態で孔子の軍に保護されますが、陽虎はそれから追っ手に追われて魯国から逃げて、宋・晋を転々として、晋の趙鞅に召し抱えられました。趙鞅は全家臣の反対を押し切って陽虎を召し抱えてました。陽虎の統率力と政治能力を高く買ったのでしょう。これを恩に感じた陽虎は趙鞅に忠誠を誓い懸命に仕えたそうです。また、このとき魯の国を出た孔子に再会し、孔子の弟子たちの力を知っていた陽虎は孔子を晋の国に来ないかとさそいますが、孔子は断ったといわれています。
2019年9月12日木曜日
2019年9月11日水曜日
孔子のライバル 小正卯
季孫意如が亡くなるとその家老職の陽虎という人物が公山不狃(こうざんふじゅう)と仲梁懐(ちゅうりょうかい)という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。そこで、少正卯が国王に進言し、今の国情では陽虎達を倒すことはできないので、各国から掃討軍を募り対抗させてみてはどうかと提案し受け入れられます。計6国の軍隊が魯の国に駐留し陽虎の軍を追い払うことに成功しますが、今度は6国の軍隊が魯の国の治安を脅かすことになり、国内は更に治安が悪化します。どうにもいかなくなった少正卯は孔子を長官にし、問題に対処させてみてはどうかという提案をし、孔子は弟子たちと相談し、論じてばかりでは本当の大道を得られないのではといわれ、魯の国の長官になることを決意しました。その後孔子は、まず6国の軍の筆頭である斉の国に使者として、弟子の子貢を遣わせ、外交政策をうまく行い、斉の国をうまく操り、6国の軍を撤退させることに成功しました。その後、孔子は内政を充実させる政策を次々に打ち立てて国力を回復していきました。しかし、そんな状況を面白くないと思った少正卯は、孔子は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔子と陽虎達を戦わせ、孔子が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔子は陽虎の軍と戦うことになります。孔子も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔子軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では孔丘の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、士気は低かったのが原因で、孔子軍の勝利で終わります。
陽虎を討伐した孔子はその功績で大司空に任ぜられ、益々王宮での発言力が増します。そんな折、少正卯も大司馬と呼ばれる軍事の最高職につき、同じく発言力を増していました。
ある日、子路と冉有と子貢は兵の訓練後に、自分の資金で酒を買い兵をもてなしました。それを聞いた孔子は、兵の私物化が魯の国力の衰退をまねいたからと、その三人を厳しく咎め、精強に育て上げた兵達を大司馬の少正卯に引き渡すように言います。子路たちは反対しましたが、孔子の意思は固く、兵権は少正卯のものになりました。
兵を返すやいなや、少正卯は淑孫氏と孟孫氏と共謀し魯国の都である曲阜(きょくふ)に攻めこみ、定公と孔子を亡きものにしようと画策します。季孫斯と孔子はこれに対抗し曲阜を守るのですが、少正卯の軍は5000に対し、孔子は近衛兵のみの僅か100程の兵しかなく、戦況は圧倒的に不利でした。また、少正卯は100程の兵を曲阜に忍ばせてあり、開戦間もなく、門は破られ定公と孔子と季孫斯は季孫家の屋敷のなかに逃げます。多くの敵兵に囲まれ、万事休すのところを、遠方地に派遣されていたかつての精鋭を呼び戻し、帰還した子路の戦車部隊が到着し、包囲を解きます。それを見た淑孫氏と孟孫氏は逃げようとしますが、少正卯はまだ戦車部隊が数百来ただけだから勝算はあると解きますが、理解されず一人曲阜に取り残されたところを捕らわれます。そして、謀反を煽ったとされ罪を一身でかぶり処刑されます。季孫斯宛の一冊の竹簡を遺して。
少正卯がいなくなり、孔子の唯一の憂いは定公よりも三桓氏の権力が圧倒的に勝っているという事でした。そこで、三桓氏の私兵を魯の軍として参入させることと、三桓氏の領地の城壁を下げる事で権力を定公の元に集約しようと画策します。これには淑孫氏と孟孫氏が猛反発しますが、孔子は毅然としてこの態度を崩さず、弟子たちもまだ時期尚早だからやめた方がいいと止めますが、孔子は聞き入れませんでした。間に入っていた季孫斯でしたが、淑孫氏と孟孫氏の讒言に逆らえず、また、少正卯の竹簡にかかれたことが頭から離れませんでした。それは、孔子は魯の国を自分のものにしようとし、三桓氏を必ず追い出すようになるため、用心しろと言う内容でした。
そして、季孫斯は今までの恩を仇で返す仕打ちをしてしまいます。魯の国の先代を祭る祭典の進行役に孔子を指定しておきながら、別の場所で季孫斯を進行役にした祭典を開き、孔子に恥をかかせます。これに愛想を尽かした孔子はこれ以上この国にいることの無意味さを悟り、弟子たちと共に魯の国を出ることにしたのです。
小正卯は死して手紙ひとつで孔子を出奔させることに成功したのです。なかなかの奸雄と言えるでしょう。また、孔子も小正卯にしてやられたと後々も語ったとされ、ずる賢さでは小正卯の方が数段上だと言えるでしょう。
2019年9月10日火曜日
2019年9月8日日曜日
孔子の上司 季孫意如
今回は孔子の上司である、季孫意如(きそんいじょ)を紹介します。季孫家は魯の国の王族の家柄です。季孫家はその中でも三桓氏の筆頭です。三桓氏とは魯の国の王族の家柄の者を指し、季孫家以外にも孟孫(もうそん)家、叔孫(しゅくそん)家があります。季孫意如と孔子とのはじめの接点は、孔子が若い頃に母親の亡骸を遺言通り父親のお墓に入れてやりたがっていましたが、母親が妾であるために、墓の場所を教えてもらえずにいたときになります。魯の王宮では孔子の噂が広まっていました。こんな乱世に親孝行な奴だと孔子を誉めた人物がいました。三桓氏筆頭の季孫意如(きそんいじょ)です。季孫意如は孔子の父である孔叔粱の墓の場所を孔子に教え、また孔子に官職を授け、倉庫を管理する委吏(いり)にします。その恩に報いるため、孔子は持ち前の誠実さと学識で実務をこなしていくうちに借金の帳簿に誤りがありことを知ります。当時、魯の王様襄公は三桓氏に借金をしているため、三桓氏の顔色を伺わなければいけない立場にありました。しかし、帳簿の記録を元に遡っていくと、実際は三桓氏が襄公に借金をしていたのです。それを上司である季孫氏に報告したのですが、当然受け入れられる訳もなく、季孫氏は襄公に知られる前に記録のすべてを焼き払い、襄公に真実を伝えられることはありませんでした。季孫氏は孔子に要職を任せると優秀であるがために、自分を脅かす存在になるのではないかと孔子のことを恐れたため、乗田という羊飼いの職につかせることにしました。しかし、しばらくすると孔子は母親の二つ目の遺言を果たしたいので宋にいかしてほしいと願い出ます。孝行者の孔子の更なる孝行の願いでもあるので、認めざるをえないことと、認めてあげれば自分の仁者としての名声も上がると判断した季孫氏は承諾します。
孔子が無事二つ目の遺言を叶えて戻ってくると、魯の国は腐敗しきっていました。闘鶏が国中で行われており、しまいには王と三桓氏らによる全財産をかけた闘鶏が行われようとしていました。しかし、これは互いにいかさまが露見し無効になります。そんな騒動が行われるなか、魯の王様襄公は三桓氏の陰謀にはまり国を追い出されてしまいます。襄公についてくるのは古くからの家来を含めても、孔子とその弟子たちだけでした。そして、年老いていた襄公はとなりの斉国で息絶えます。孔子に「誠の忠臣はそなただけだったな」という言葉を囁いて。襄公の亡骸を魯の国に運ぶと、三桓氏たちは声を揃えて「何を今さらもどって来たのだ。まるで、私たちが悪いことをしたみたいではないか」という言葉をかけたのですが、季孫意如だけは「よく戻ってきた。我々が間違っていた。」と言ったそうです。この頃、季孫意如は病に臥せっており、襄公を追放した後にさらに魯の国が混乱したことに責任を感じていました。そして孔子に「私の息子を導いてくれ」と遺言し、息を引き取ります。孔子は「あれほど聡明な季孫様でも見誤ることがあるのか。」と嘆いたと言われています。また、遺言通り季孫意如の息子の後見人になっていきます。
優秀な人物でも回りが悪いと本領を発揮できないものです。孔子が認めた人ですし、僕も季孫意如は優秀な人物で、かつ無名の孔子を賞賛したところに慈悲もあった人であると思います。
孔子が無事二つ目の遺言を叶えて戻ってくると、魯の国は腐敗しきっていました。闘鶏が国中で行われており、しまいには王と三桓氏らによる全財産をかけた闘鶏が行われようとしていました。しかし、これは互いにいかさまが露見し無効になります。そんな騒動が行われるなか、魯の王様襄公は三桓氏の陰謀にはまり国を追い出されてしまいます。襄公についてくるのは古くからの家来を含めても、孔子とその弟子たちだけでした。そして、年老いていた襄公はとなりの斉国で息絶えます。孔子に「誠の忠臣はそなただけだったな」という言葉を囁いて。襄公の亡骸を魯の国に運ぶと、三桓氏たちは声を揃えて「何を今さらもどって来たのだ。まるで、私たちが悪いことをしたみたいではないか」という言葉をかけたのですが、季孫意如だけは「よく戻ってきた。我々が間違っていた。」と言ったそうです。この頃、季孫意如は病に臥せっており、襄公を追放した後にさらに魯の国が混乱したことに責任を感じていました。そして孔子に「私の息子を導いてくれ」と遺言し、息を引き取ります。孔子は「あれほど聡明な季孫様でも見誤ることがあるのか。」と嘆いたと言われています。また、遺言通り季孫意如の息子の後見人になっていきます。
優秀な人物でも回りが悪いと本領を発揮できないものです。孔子が認めた人ですし、僕も季孫意如は優秀な人物で、かつ無名の孔子を賞賛したところに慈悲もあった人であると思います。
ペンション ベストフレンド宿泊
泊まったペンションはベストフレンドというところです。
ベストフレンド
http://www.lcv.ne.jp/~bfriend/
ベストフレンド
http://www.lcv.ne.jp/~bfriend/
このペンションの部屋からも富士山が見えました。かなり、天気がよかったです。中央左の雲の上から少し見えているのが富士山です。
鯛の衣焼きで、パリパリで美味しかった。
豚肉のソテーも柔らかくて美味しかった。
車山高原 長門牧場 旅行
次の日に車山高原に行ってきました。かなり天気がよくて最高なロケーションでした。
車山高原
https://www.kurumayama.co.jp/summer/
車山高原
https://www.kurumayama.co.jp/summer/
標高1925Mです。雲の上にいるような感じでした。
中央の雲の上に少し除いている遠い山が富士山です。
リフトの上にはタンクもありました。
白樺湖もみえます。
その後長門牧場に行ってきました。
長門牧場
http://nagatofarm.com/
アルパカが放し飼いになっています。
大人しくて襲われる気配は全くありませんでした。
チロルの森へ旅行
一昨日と昨日、久しぶりに長野県茅野市まで旅行に行ってきました。まず始めにいったのは、チロルの森です。
チロルの森
http://www.tirol.gr.jp/
入場料はとられますが、なかなか色々な見処がありよかったです。子供連れにはもってこいだと思います。
チロルの森
http://www.tirol.gr.jp/
入場料はとられますが、なかなか色々な見処がありよかったです。子供連れにはもってこいだと思います。
標高も高いので、スイスのような感じです。オーストリアをモチーフにしているみたいですが。
牛も放し飼いでいます。人の通るところには来ないですが。乗馬体験も出来ます。
森の中にあるので、癒されます。
おじいちゃんが頑張って仕事してました。
どうやって作ったのか、巨大なカボチャが大量においてありました。ハロウィーンようでしょう。
ミートソースパスタ食べました。自家製ウィンナーも乗ってて美味しかったです。
2019年9月7日土曜日
2019年9月6日金曜日
孔子の父 孔叔梁
今回は孔子の父、孔叔梁(こうしゅくりょう)について紹介したいと思います。孔叔梁は魯の国の将軍です。ある日孔叔梁は魯の国の王襄公に命じられ、斉の国に潜入していました。楚の国の特使である熊伯に不穏な動きがあり、熊伯の行動を監視し、ことによっては暗殺する任務についていました。しかし、この任務はとても危険を伴う任務でした。なぜなら、斉の国は魯の国と敵対しており、潜入していることがばれてしまえば、すぐに斉の国の兵がやってきてしまいます。さらに、孔叔梁の軍は潜入任務のため、少数しか連れていませんでした。そのため、戦いになれば万が一にも勝てる見込みがありません。そんな中、熊伯が睨んでいた通り、楚の国と斉の国が手を組んで魯の国を攻め立て、分割統治をしようという話を始めました。それを聞いた孔叔梁は、直ちに兵を動かし熊伯を倒しましたが、斉国の兵が援軍を呼びに宮殿へ駆けていきました。そして、援軍が直ちにやってきて孔叔梁の一隊を襲撃しました。孔叔梁の一隊は、それにより壊滅し、孔叔梁も瀕死の重傷を負いました。その傷をみた、顔徵在という熊伯の奴隷は何を思ったのか、孔叔梁をその場から連れ出し、魯の国に向けて逃亡しました。なんとかその場からは逃れたものの、季節は冬で極寒の中大の男を抱えての足取りは重くなかなか、歩みを進められませんでしたが、なんとか魯の国にたどり着き、孔叔梁は命を取りとめることができました。彼らはその後、尼丘山で婚約を交わし、子供を授かります。その子供が孔丘といい、後の孔子となります。そして、孔叔梁は自分のもうひとつの家族があるみだったので、顔徵在は妾になるのですが、顔徵在に平民の位を授けてもらうように進言しました。孔叔梁は先の熊伯暗殺の功で称賛されていたため、進言は受け入れられました。その後の戦いで孔叔梁は戦死しますが、孔叔梁の勇敢さは子供の孔丘に引き継がれました。そして、母の慈悲深さも受け継がれて、子の孔子は魯の国を代表する偉人となってゆくのです。
2019年9月5日木曜日
孔子の母 顔徵在
今回は孔子の母を紹介したいと思います。孔子の母である顔徵在は、斉国の出身で家族が軍に皆殺しにされて仇討ちのため人殺しをして、処刑されるところでした。冒頭から壮絶ですが、そんな顔徵在を熊伯(ゆうはく)という楚国の特使に奴隷として使いたいからと命を助けられます。しかし、顔徵在は家族を失った悲しみから、命の恩人の熊伯に心を開くことはありませんでした。そんな折り、熊伯が楚国と斉国で弱小である魯国の分割統治をしようと企みます。しかし、この企みは、少数部隊で潜入していた孔叔梁(こうしゅくりょう)の耳に入り、熊伯を暗殺しますが、孔叔梁も傷つきます。顔徵在はその孔叔梁を懐抱しながら、魯国へと一緒に向かうことになります。目の前で傷ついている人を放っておけない良心の持ち主であったのでしょう。途中雪が降り、山賊に襲われそうになりながらも、少しずつ歩みを進め、なんとか無事魯国にたどり着くことができました。孔叔梁には、妻と子供がいたのですが、孔叔梁の功績により、魯国より顔徵在を内縁の妻として住まわせ、魯国の平民の身分を与えられました。そして、子供を授かります。それが後の孔子になります。その数年後、孔叔梁は戦に敗れ命を落とします。孔子は物心ついたときから、母親である顔徵在一人の手で育てられました。顔徵在は立派であった父親の子であることに誇りを持つようにと、孔子が10代のときに各国へ旅に出て世界を見るように言います。そして、数年間各地を旅して帰ってきた頃に顔徵在は重い病に臥せってしまいます。孔子は悲しみますが、顔徵在は気丈に振る舞い、孔子に「男たるもの人前で涙を見せるものではない」と叱ったそうです。そんな顔徵在もついに病に命を落とします。孔子は、母の遺言である父と同じ墓に入れてほしいという願いを叶えるべく、母の亡骸を棺にいれたまま、魯国中を歩き回り、孔叔梁の墓はどこですか?と聞いて回りつづけ、国中で噂になるようになります。そんな噂を聞き付けた、魯国の大臣が孔子の孝行ぶりに感心し、顔徵在の亡骸を孔叔梁と同じ墓に入れたそうです。孔子は、母親の慈悲深さと父親の忠義心を受け継いだ立派な青年に育っていきました。そして、顔徵在は自分の育てた息子に自分の望みを叶えてもらえたのでした。
2019年9月4日水曜日
孔子の弟子 『冉有』
孔子の弟子4人目は冉有です。冉有は、兵糧の準備や年貢の取り立てなどを行い前線の味方の後方支援が得意ですが、前線に出て戦うこともあり、陽虎討伐戦では、子路と共に副将として参戦し戦功をあげました。また、冉有は先に門弟になっていた子路のことを兄弟子と仰いだりして、子路と行動を共にすることが多かったそうです。また、孔子の晩年に魯の国が呉と越の連合軍に攻められようとしたとき、700の兵を精鋭に育て上げ、国境付近で待機している敵軍2万を夜襲し追い払うことに成功しています。この事から、孔子の弟子のなかでは子路に次ぐ武断派であったといわれています。冉有のエピソードとして、こんなものがあります。冉有が孔子に、「思ったことはすぐに行動にうつさなければならないのでしょうか?」と聞いたときに、孔子は「すぐに行動にうつしなさい」と言ったそうです。しかし、それと同じことを子路が言うと、「よく考えてから行動しなさい」と言ったそうです。子路は機微が敏感すぎるたちなので、考えてからと言って諫め、冉有は優柔不断なところがあったため、すぐに行動しろと激励したという話です。猪突猛進の子路と慎重派の冉有はお互いの欠点を補い会ういいコンビだったのでしょう。彼らの采配により、数々の戦で魯の国は勝利を納めることになります。しかし、このコンビは三国志の楽進と李典を思わせるような名コンビですね。
2019年9月3日火曜日
孔子の弟子 『子路』
孔子の弟子3人目は孔子に幼少期から弟子入りしており、孔子に最も信頼された子路です。孔子が長官になってからは、一軍の大将を任せられ、数々の戦場を駆け回り戦功を立てました。中でも、陽虎討伐戦では素人同然の兵3千を短期間で精鋭に育て上げ、その兵を率いて陽虎の軍3万を打ち破る功をたてました。また、兵と心を交わすことが得意で、敵対していた少正卯の元自軍の兵を鶴の一声で自分のものにしてしまうほどです。孔子いわく「質実剛健で、困難なことにも立ち向かう強さを持っているが、融通が効かず、まっすぐすぎる性格が災いするだろう」と評されます。孔子の晩年の諸国放浪の旅について行き、衛国にとどまり兵の訓練や戦の指揮をとっていたが衛国の内乱に巻き込まれ、部外者であるが逃げることなく兵をまとめようとするも、反乱軍に重囲され、憤死します。多数の傷を負いながら孤軍奮闘する中、兜が自分の頭から落ちたのを見て「君子は冠を正しくするものだ」と言い、再び結び直してから絶命したといいます。孔子の弟子のなかでも、随一の武断肌の人物といえるでしょう。
孔子に弟子入りした子路な真っ直ぐで聞かん坊な性格であったと書かれていることが多く、度々回りの弟子たちと衝突したり、時には孔子とも言い争いをすることがあったようです。そんな子路を叱りつつも孔子は彼を可愛がっていたと言われています。
2019年9月1日日曜日
孔子の弟子 『曾参』
孔子の弟子シリーズ2つめは曾参です。彼は、孔子から『考』(親孝行)の道に秀でており、考についての考え方は孔子よりも優れていると言われたほどです。また、彼は学識も優れており孔子や顔回とともに学問の話をよくしていたと言われています。彼は親孝行の性格でよく知られていますが、こんなことわざも作られています。彼の母親は曾参のことを信用していたのですが、曾参の使いのものから曾参が人を殺したという話を聞かされます。彼の母親はそれは嘘だろうと一度は思ったのですが、何度も何度も同じことをいう人がいたので、とうとう信じてしまい、慌てふためいたそうです。実際は曾参の親戚が人を殺したみたいだったのですが。
その事から「曾参、人を殺す」という言葉は、あまりに信じがたい嘘でも何度も言われると信じてしまうこともあるという例えになっています。そのような説話になるほど当時の人々にとって曾参が親孝行ということが知れ渡っていたということになります。
孔子も彼のような賢く、親孝行な若者を好んでいたようで、孔子の孫の子思は彼に従事していたと言われています。余談ですが、子思に従事したのが「性善説」を書いた孟子です。曾参も後に曾子となり、朱子学の4聖と言われるようになります。孔子も実の母親が亡くなったときに、父親と同じお墓に入れてほしいと遺言で頼まれていたのですが、父の墓の場所がわからなくて、棺の中に母の亡骸を入れたまま何日も歩き回ったという逸話があります。そんな、親孝行の2人だからこそ話が合うところもあったのも知れませんね。
その事から「曾参、人を殺す」という言葉は、あまりに信じがたい嘘でも何度も言われると信じてしまうこともあるという例えになっています。そのような説話になるほど当時の人々にとって曾参が親孝行ということが知れ渡っていたということになります。
孔子も彼のような賢く、親孝行な若者を好んでいたようで、孔子の孫の子思は彼に従事していたと言われています。余談ですが、子思に従事したのが「性善説」を書いた孟子です。曾参も後に曾子となり、朱子学の4聖と言われるようになります。孔子も実の母親が亡くなったときに、父親と同じお墓に入れてほしいと遺言で頼まれていたのですが、父の墓の場所がわからなくて、棺の中に母の亡骸を入れたまま何日も歩き回ったという逸話があります。そんな、親孝行の2人だからこそ話が合うところもあったのも知れませんね。
孔子の弟子 『顔回』
今回は孔子の弟子である顔回を紹介したいと思います。孔子伝外伝でも書いていますが、僕の好きな人物であるために、もう一度詳しく紹介したいと思います。顔回は孔子の弟子の中でも学問好きで知られ、名だたる孔子の弟子の中でも秀才であったと言われています。また、学問をすること以外は興味をひくものがなかったのか、暮らしぶりは極めて質素であったと言われています。孔子からはこう評されています。
「怒りを遷さず、過ちをふたたびせず」
性格も穏やかで同じ過ちを二度繰り返す人ではなかったと言われています。また、彼は殷の旧時代の文献を読むことができる数少ない人物で彼の学識の高さが窺えます。そんな顔回ですが、彼は孔子よりも30歳も若かったのですが、孔子よりも先に他界します。彼の学識を誰よりも愛していた孔子は彼の死を真に受けたときに
「ああ、天われをほろぼせり」と嘆いたと伝わっています。弁舌の得意な子貢よりも高く評価されていますね。孔子は、目先の利益や口が達者な人よりも、謙虚さや素朴さや勤勉さを重んじる人であったので、顔回のような脇目もふらずに学問一筋の人を愛したのでしょう。彼は後世で朱子学の4聖と言われ、彼の姿勢は後々まで語られることになります。
「怒りを遷さず、過ちをふたたびせず」
性格も穏やかで同じ過ちを二度繰り返す人ではなかったと言われています。また、彼は殷の旧時代の文献を読むことができる数少ない人物で彼の学識の高さが窺えます。そんな顔回ですが、彼は孔子よりも30歳も若かったのですが、孔子よりも先に他界します。彼の学識を誰よりも愛していた孔子は彼の死を真に受けたときに
「ああ、天われをほろぼせり」と嘆いたと伝わっています。弁舌の得意な子貢よりも高く評価されていますね。孔子は、目先の利益や口が達者な人よりも、謙虚さや素朴さや勤勉さを重んじる人であったので、顔回のような脇目もふらずに学問一筋の人を愛したのでしょう。彼は後世で朱子学の4聖と言われ、彼の姿勢は後々まで語られることになります。