2010年2月10日水曜日

上士と下士

 現在、大河ドラマ「龍馬伝」が放送されていますが、その中に「上士」と「下士(以下郷士とする)」という身分の差が描かれています。なぜこのような身分ができたか。その由縁は戦国時代までさかのぼります。

 西暦1600年関ヶ原で天下分け目の合戦が行われました。西軍の石田光成対東軍の徳川家康が戦いました。ご存知の通り、合戦は東軍の圧勝で幕を閉じます。そのとき土佐(高知県)の大名、長宗我部盛親は西軍に属し所領を没収されます。そして、新しく東軍側から土佐へ派遣されたのが山内一豊でした。
 そこで問題になったのが、長宗我部盛親のときからいた侍たちの待遇でした。長宗我部家が築き上げた屈強の一領具足隊を追い払うことは困難であり、懐柔策が必要でした。そこで考え出されたのが、上士と郷士という二つの身分を確立することでした。徳川から派遣されてきた侍は上士とし、今までいた侍たちは郷士として上士よりひとつ身分を下げるかわりに土佐に住んでもよいという取り決めがなされました。その伝統が幕末まで続くことになり、龍馬伝でその様子が表されているわけです。上士と郷士という身分の差は他の藩でも存在していましたが、土佐藩は特に差別が厳しかったようです。

 ちなみに上士は幕末の後の明治政府の重鎮板垣退助や後藤象二郎がおり、やっぱり明治維新後も差別は続いたのかと思わされる結果となっているんですよね・・・。そして史実では武市半平太は郷士ですが、白札という特別待遇で上士同然に扱われていたようです。なんとなく大河での武市の服装や屋敷は他の郷士と比べてリッチな感じがします。今年の大河はなかなか細かいところも点けている気がするなぁ。

2 件のコメント:

  1.  上士と郷士の存在は知っていましたが、そういう由来があったことは今まで知りませんでした。薩摩藩では武士の郷士の比率が高く、しかも全住民の半数が武士であった為に武士と言っても郷士は農民と差がほとんどなかったそうです。そんな郷士出身であったゆえか西郷隆盛は倒幕後、藩政改革についた際にこの上士と郷士の身分制を廃止したそうですが、このままだと鹿児島に西郷王国が出来るとの危機感から明治政府が再召集をかけたと聞いたことがあります。

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  2.  西郷隆盛は孤高の人って感じなんですよね。現在の政治家で言うと渡辺善美という感じがします笑。

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