2018年5月3日木曜日

孔子伝 前編

今回は孔子について書きたいと思います。
孔子にどんなイメージがあるでしょうか?
恐らく、多くの方は晩年の諸国放浪の旅のイメージが強いでしょうが、それ以外にも魯国で大司冦に任ぜられ国の政をしている時期もありましたし、軍を率いて戦うこともありました。また、愚かにも貴族の立場にあぐらをかき、女と酒に溺れたこともありました。
そんな孔子がどのような人生を送ったか、書いていきたいと思います。まずは以下に孔子の生きる時代の地図を記します。

魯の国は弱小だった

『孔子の出自』
 時は紀元前6世紀の春秋戦国時代。魯の国に孔丘(後の孔子。以後孔丘と記す)の父となる孔叔粱(こうしゅくりょう)という将軍がいました。
彼は、大国の斉と楚が魯を分割統治する計略を熊伯が企てていることを知り、阻止することに成功するも部下をすべて失い、自身も傷を負ってしまいます。そこには、熊伯の奴隷として連れてこられていた、後の孔丘の母となる顔徴在(がんちょうざい)がいました。顔徴在は斉国の出身で家族全員を軍に殺され、仇討をしようとしたが失敗して捕縛され、処刑されるところを熊伯に奴隷として買われた身でした。彼女は傷ついた孔叔粱を手当てをし、道中山賊に襲われたり、極寒の中を女手ひとつで大の男を抱き抱えながら、必死の思いで歩き続け、なんとか魯の国に帰ることができました。
魯の国の尼丘山で孔叔粱と顔徴在は慎ましく暮らし、一人の子を授かります。それが孔丘(後の孔子)です。孔丘は孔叔粱の勇敢さと顔徴在の慈悲深さを受け継ぎ、大道を歩んでいくのです。


『孔子の少年期』

孔子の青年時代の呼名

 孔叔粱は孔丘が3つのときに亡くなります。孔叔粱の功績のお陰で顔徴在は平民の位を授かり女手ひとつで酒店を営みながら孔丘を育てていきますが、顔徴在は息子になんとか父親のような(孔叔粱は魯では先の功績で英雄と称えられていた)立派な人になってほしいという思いを募らせていました。そんな折、豪華絢爛な一台の馬車が顔徴在の店の前に止まります。酒を求めに来たその男の名は季札といい、彼は呉の国の王子でした。彼は、乱世や呉国の内乱に嫌気がさし放浪しているところでした。顔徴在は彼を歓待し、しばらく滞在してもらいながら孔丘の家庭教師として孔丘を教育してもらいました。しばらくして季札が魯の国を出ていくというときになり、顔徴在は季札の旅に孔丘を連れていってほしいと懇願し、何度も拒否されますが、顔徴在の熱意に押され、季札の諸国放浪の旅に孔丘はついていくことになります。

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