2010年1月5日火曜日

今川義元

 
 今川義元は駿河(静岡)の戦国大名です。彼は織田信長にかの有名な桶狭間の合戦にて敗れ去った武将として世に知れ渡っています。2万5千対2千5百の圧倒的有利にも関わらず討ち取られてしまったことから、蔑まれている節が多い義元。御輿に乗っているのも、馬に乗れないほど足が短かったと言われたり、貴族かぶれな生活をしていることから、個人的武勇は皆無などと言われたり・・・散々な言われようです。しかし、彼は本当はやり手の人物なのです。
 
 彼は、東海道一の弓取りと言われるくらい名の通った武将でした。今川家の最盛期を築き、その領域は駿河、遠江、西三河、尾張にまであり一大勢力を誇っていました。その実力から上洛(京都に赴き自身の権力を天下に知らしめること)しようとした折に信長にやられてしまいます。彼にとってはまったくの不意打ちであり、寡兵でありながら信長軍が責めてくるなど誰しも考えなかったでしょう。私は大群の今川勢を打ち破った信長を褒めるのが妥当と考えます。御輿に乗っていたのだって、将軍足利家から御輿に乗ることを許されたので、その好意に報いるためであったと思います。また、信長の奇襲から逃げるのに馬に乗っています。そして信長の家臣に追い詰められたときは自ら抜刀して立ち向かい、相手のすねを切りつけたり、指に噛み付いて頑強に抵抗したと言われています。教養が高いのはむしろいいことだし。

 そんな感じで私は今川義元を暗愚な武将だとは思いません。優秀であったが、奇襲により運悪く死んでしまった悲運の武将。それが私の考える今川義元です。また側近である太原雪斎や朝比奈泰能が生きていれば、義元が討ち取られることは無かったという説もあります。2人の優秀な部下を失ってしまったことが義元にとって大きな痛手になっていたのかもしれません。

<戦国武将パラメータ>
統率75 武勇70 知略80 政治90 義理70 魅力70
特徴:与一の弓、公家かぶれ

この武将を評価する点
・領国経営がうまい・今川家の最盛期を築いた・教養が高い

2 件のコメント:

  1.  なんか今川義元はいつからか公家かぶれの愚か者という認識が世の中に定着してしまっちゃいましたね。史実ではたいした武将なのですが、息子の氏真のインパクトが強すぎてかぶってしまったのかもしれません。

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  2.  氏真の影響は確かにあるでしょうね。氏真は多くの家臣に裏切られた末に家康に亡命していますが、家康はかつて今川に人質として捕らえられていた人物。まったく逆の立場になってしまったんですよね。まあ、周りは強い輩ばかりでしたから仕方がないかもしれませんが、今川家の者であるならば一戦交えてほしかったですね。

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