2018年5月20日日曜日
孔子伝 最終章 後編
『老年期 諸国放浪』
孔丘は魯の国に愛想をつかし、弟子と共に旅に出ますが、まずは衛の国に行きます。衛の国の王様は年を取りすぎており、婦人の南子が取り仕切っていました。その南子婦人が孔丘に会いたいと言って、好色な南子婦人が師を誘惑しようとしていると弟子たちは警戒しますが、孔丘はそれに応じ、琴と舞を楽しみながら交流をします。しかし、これが衛国内で様々な臆測をうむこととなり、孔丘は衛国を出ることにします。
次に晋国に向かうのですが、そこで、公叔戍(こうしゅくじゅ)という衛の将軍が衛国に反発していたため、孔丘一行を衛国の手先だと勘違いして先に様子を見に来ていた子貢と冉有を捕らえます。孔丘が2人の救済のため、話し合いをしようとしますが、公叔戍は「俺を説き伏せれたら、仲間を離してやる」と意気込みますが、孔丘にあっけなく説き伏せられ、最後には先生と崇めるまでになり、道をあけました。そこで、衛国の使者がまたやって来て公叔戍無礼を詫びると共にまた、衛国に戻ってきてくれと言われ、戻ることにします。
戻るやいなや、南子婦人が殺されると血相を変えてやって来て、衛の皇太子が南子婦人の横暴に耐えきれないからと殺そうとしていました。孔丘の弟子たちが守ることはないと主張するのですが、孔丘は助けを求める女性をたすけられずに大道を得ることはできないとして、助けようとします。ところが、屋敷を太子の兵で囲まれてしまいます。しかし、南子婦人の腹心の弥子瑕(びしか)が兵を率いて、太子の兵を蹴散らし、この混乱は沈静化されます。南子婦人は孔丘の恩は決して忘れないと誓い、孔丘達一行は、再び衛国を発ちます。
宋国に入った孔丘達一行は、民の屍が足の踏み場もないほど放置されている光景を目にします。それは宋の司馬である桓魋(かんたい)が、自分の石棺を民に作らせ、かなりの重労働を課しており、毎日多数の過労死者を出していたために起きていた惨劇でした。孔丘が来ると解っていた桓魋は雪の降るほど寒い日なので、町の中に入り暖をとらせつつ、孔子に教えを請おうとしたのですが、孔丘はこんな悪逆非道な行いをする人に話す舌はないと拒否します。その仕返しに荷物の一部を燃やされたり嫌がらせをされますが、孔丘は極寒の中でも町に入らずそのまま宋の国から立ち去ります。
次に孔丘達は陳の国に入ります。そこで湣公(びんこう)に会うのですが、孔丘達一行を歓待し、孔丘に教えを請います。この頃になると、孔丘達一行は各国で人格者として有名になっており、各国の諸侯は皆、孔丘に一度は教えを請いたいと思っていました。湣公は孔丘に諸侯たるものどういう行いをするべきかと問います。孔丘は、自分の町を隣町の民が来たくなるような町にすることだと答えました。そのためには民のための政治を行い、腐敗した政治をしてはいけないと助言しました。湣公は教えに感謝し、孔丘たちを見送りました。
陳を後にした孔丘達一行は、楚の昭王が仁君であると聞き、是非一度会ってみたいと楚の国に向かいます。道中で楚の将軍に会い、昭王の元に知らせ、迎えを呼んでくる為に楚の国に急ぎ戻ります。しばらく進むと孔丘達の前に蔡国の兵の無数の屍が道を塞いでいました。どうやら、呉の国の敗残兵の仕業らしく、孔丘達は必死にすべての兵を埋葬していきましたが、7日の間飲まず食わずで作業したため、栄養不足で倒れるものが後をたちませんでした。子貢は後にこの時は本当に死を覚悟し、7日目は仲間と手を繋ぎ、死を待ったと語っています。7日目にようやく楚の兵が迎えに来たことで、全員無事に楚の国に入ることができました。楚の国では、昭王は孔丘を破格の待遇で迎えようとしましたが、家臣の子西が少正卯の手紙の内容を誇張して昭王に話したため、昭王は孔丘を召し抱える事をあきらめ、客人としてもてなすにとどまりました。
そんなある日、孔丘の元に魯から遠路はるばるやって来た一団がいました。その中には、孔丘の孫に当たる孔伋(こうきゅう)後の子思がやって来て、久々の魯の故郷話で盛り上がりました。しかし、そこで孔丘の最愛の人である幵官氏が亡くなった事を知り、故郷に帰る決心をします。孔丘含め、弟子達は魯への帰郷を大変喜びました。実に13年間も旅をしており、孔丘はこのとき69歳になっていました。
孔丘は今まで自分が見て感じてきたとこを踏まえた歴史書「春秋」を執筆します。春秋には最後に麒麟が出てきますが、太平の世に出てくるはずの麒麟が乱世に出てきてしまったために、民達に獣扱いされころされてしまうという締め括り方をしています。この麒麟は孔子自身の、境遇を照らし合わせているのかもしれません。弟子の子路と顔回、そして息子の孔鯉が、亡くなるのを見届けてから、孔丘は74歳でその波乱の人生の幕を閉じます。
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