2018年5月4日金曜日

孔子伝 中編

『孔子の青年期』

季札の孔子への説法

季札との旅に出た孔丘は道中に色々な事を語り合いながら、習います。周王朝の武王や文王の事、夏王朝の人々の暮らし、当時の乱世の無常な日々への憂いなど様々なことを教えてもらいます。孔子が後に語る「15にして学問を志す」とは季札との日々が強く影響していたのでしょう。そんなある日、酒浸りの生活が仇をなし、季札は重い病にかかってしまいます。そこで季札の友人でお見舞いに来た子産という当時鄭の摂政だった人物がやって来て、法律の作成を孔丘に手伝って欲しいことと、季札を呉の国に帰してやるべきだと助言します。法律の作成は断り、呉へ向かいますが、道中で季札は死んでしまいます。悲しみにくれる孔丘は季札を埋葬し、仕方なく魯国に戻ります。久しぶりに再会した母は老いており、息子孔丘は背も大きくなり立派な青年に成長していました。旅の話をしながら幸せなときを過ごしていたのですが、再会の喜びもつかの間でした。数ヵ月後、顔徴在は他界します。遺言として、孔丘に2つの願いを託して。一つは父親と同じところに埋めてほしいということ。二つ目は父親と宋国で敵軍ながらお互い認めあっていた幵官氏(けんかんし)の娘と婚姻してほしいということでした。孔丘17才のときです。

『孔子の若年期:婚姻まで』

孔子の母 顔徴在

孔丘は、母親の亡骸を棺にいれ、それを引っ張りながら父親の墓を目指しますが、墓の場所がわからず苦難します。「孔叔粱の息子、孔丘は母の顔徴在の亡骸を父の墓に埋めてやりたいが父の墓の場所がわからぬ、誰か知らないか?」という質問を何度も道行く人に言いますがみんな知らないと答えます。実は、孔叔粱は正妻を別にもっており、子供もいたのですがその正妻一家が圧力をかけて父の墓を決して教えはしまいと事実を隠していたのです。なので、顔徴在にも墓の場所は教えられていませんでした。それでも孔丘は母の遺言に従おうと懸命に声を張り上げながら探し続けます。そんな折、魯の王宮では孔丘の噂が広まっていました。こんな乱世に親孝行な奴だと孔丘を誉めた人物がいました。三桓氏筆頭の季孫意如(きそんいじょ)です。三桓氏とは魯の国の王族の家柄の者を指し、季孫家以外にも孟孫(もうそん)家、叔孫(しゅくそん)家があります。季孫意如は孔叔粱の墓の場所を孔丘に教え、また孔丘に官職を授け、倉庫を管理する委吏(いり)にします。その恩に報いるため、孔丘は持ち前の誠実さと学識で実務をこなしていくうちに借金の帳簿に誤りがありことを知ります。当時、魯の王様襄公は三桓氏に借金をしているため、三桓氏の顔色を伺わなければいけない立場にありました。しかし、帳簿の記録を元に遡っていくと、実際は三桓氏が襄公に借金をしていたのです。それを上司である季孫氏に報告したのですが、当然受け入れられる訳もなく、季孫氏は襄公に知られる前に記録のすべてを焼き払い、襄公に真実を伝えられることはありませんでした。季孫氏は孔丘に要職を任せると優秀であるがために、自分を脅かす存在になるのではないかと孔丘のことを恐れたため、乗田という羊飼いの職につかせることにしました。孔丘は真実を伝えられないことにもどかしさを感じながらも、羊飼いの職でも、真面目に取り組んでいきます。しかし、乗田の仕事をしていても頑固で誠実すぎる性格から周りの上役との折り合いがつかず衝動することが少なくありませんでした。そこで、孔丘は母親の二つ目の遺言を果たしたいので宋にいかしてほしいと願い出ます。孝行者の孔丘の更なる孝行の願いでもあるので、認めざるをえないことと、認めて上げれば自分の仁者としての名声も上がると判断した季孫氏は承諾します。

そして、宋に幵官氏の娘を訪ねにいった孔丘ですが、幵官氏は妾の子である孔丘の相手をしませんでした。幵官氏は代々弓の名手を産み出した家柄で、当時の宋国は馬車競技といって馬車に乗りながら弓で的を得て得点を競い、上位2名が決勝戦で一騎討ちを行い、相手を戦闘不能にしたものを優勝者として称えるという大会が催されていました。それに毎年出場し、優勝争いをしている幵官氏の目に留まるよう、孔丘自身も出場することを決意し、子産のつてで騎馬と弓の師匠に師事し腕を磨きました。みるみるうちに腕を上げ、大会に参加した孔丘は見事決勝まで残ると勝ち上がってきた幵官氏と決勝を戦うことになります。そこで、幵官氏は戦う前に王様にこう告げます。「孔叔粱の子、孔丘はわが娘と許嫁の約束を交わした大切な人です。この試合で万が一傷つけるわけにはいけないので私は棄権します。」幵官氏は孔丘の熱意を受け入れ遂に孔丘は幵官氏との結婚を許されたのでした。孔丘が19のときでした。

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