2019年10月16日水曜日

桶狭間の戦い 背景

 おそらく歴史が好きでない方でも、一度は聞いたことであろう桶狭間の戦いですが、この戦いの結果はご存じの方が多いと思いますが、この戦いの背景などはあまり知らない方もいるのではないでしょうか?今回はこの桶狭間の戦いの背景を解説したいと思います。

・戦力の差
今回の織田信長と今川義元との戦力差がどれほどあったかを示します。

織田信長
年齢:27歳
版図:尾張半国(実質5分の2)
石高:17万石
兵力:4000
世間の評価:うつけ(馬鹿)

今川義元
年齢:42歳
版図:駿府・遠江・三河
石高:100万石
兵力:25000
世間の評価:東海道一の弓取り(尊敬)

 これほど国力の差があれば、信長が義元に勝てる見込みはないと言い切れるでしょう。これだけの戦力差を覆した大逆転劇は歴史上類を見ません。また、泣けるのは世間の評価でこれほどまでに評価が低い信長と逆に評価が高い義元の違いから、世間がこの戦いの行く末をどのように思っていたのか想像できます。さらに年齢をみると脂の乗った年齢である義元に若造の信長が勝てるとは到底思わないでしょう。


・心境
 続いて心境について解説します。

織田信長
 勝てなければ滅亡。家臣団は林通勝を筆頭に籠城戦を主張しているが、籠城をして勝てた戦はかなり少ない。亡き父の信秀も戦は領地の外と訓戒していた。ならば、一か八か攻めるしかない。

今川義元
 足利幕府の没落により、足利家、吉良家に次ぐ将軍高家の今川家が上洛することにより世間を収めることを家臣どもから勧められたため、仕方なく上洛。また、田舎の駿府での都をまねた派手な暮らしに飽き始めてきたし、他にたいしてライバルもいないし、天下取りという娯楽を楽しもうと考える。

 以上が二人の心境です。このように神経ピリピリだった信長に対して、かなり油断している心境なのが義元です。このような心境の差が雨の助けもあって信長の勝利を呼び寄せたといっても過言ではありません。また、当人だけでなく部下にまでこの心境の差はあったと思います。それが、人数でいう4000対25000の差を埋めたのでしょう。

・戦況
 続いて桶狭間に至るまでの戦いはどうであったかを列記します。

①丸根砦攻防戦
 初戦は織田方が有利だったが、織田軍400に対して今川軍2500の戦力差は埋めがたく、今川軍の勝利。織田方の将は佐久間大学で戦死。ちなみに今川方の将は松平元康で後の徳川家康です。

②鷲津砦攻防戦
 こちらも丸根砦攻防戦と同じ時間にせめられ丸根砦が落ちて間もなく、落城。織田軍数百。今川軍2000。今川軍の勝利。今川方の将は朝比奈泰能。

③鳴海方面遭遇戦
 ②後に起こった戦い。織田軍の右翼隊500が今川軍の大軍と遭遇し壊滅。織田軍には若き日の前田利家が参加。今川軍の勝利。織田方の将佐々隼人正戦死。

 このようにすべての戦いで今川方が勝利を収めています。敗報が信長に飛び込んでくる中で信長や彼の配下はどんどん気を重くしていったことでしょう。心境的にはさらに決死の覚悟が強くなったと思います。しかし、信長は野戦をすることをやめませんでした。籠城すれば必ず負けると信じていたからです。これらの報告も馬上で今川方のもとに向かいながら聞いていました。そしてそれとは逆に今川方は数々の勝利に気をよくして、田楽狭間で昼弁当を食べるという余裕を見せます。しかし、これが信長の奇襲を成功させてしまうのです。突撃したときは強く雨が降った後の少しやんだ状態だったそうです。今川軍は雨を避けるために今川方の本軍の兵5000は散り散りになって防戦がうまくできませんでした。そして信長軍の毛利新助に討取られてしまうのです。