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2020年5月17日日曜日

五輪書と孫子の兵法の比較

ビジネスにも使える宮本武蔵の5つの教え


必勝よりも不敗を説く孫子の兵法にも通ずるような内容ですが、五輪書は不敗よりも必勝を説いているようです。孫子の兵法は軍師としての集団の戦いの哲学が書いてありますが、五輪書は一対一の決闘に関する哲学なので、自然とそう収まるのですね。また、孫子は国を背負っての戦いのため、負けたら自分の国が滅びますが、宮本武蔵は剣豪であり、負けても最悪自分一人で責任がとれるので、立場の違いも関係しているのかもしれません。そして、孫子の兵法は自分よりも強い相手に負けない考えですが、五輪書は自分と対等な相手との戦いを考えているような気がします。もう一つ違いを上げるならば、孫子は論理的な戦略を説いており、宮本武蔵は五感による直感的な戦術を説いているような感じですね。
 共通する部分としては、どちらも相手の心理を深く理解することが重要と説いているところですね。孫子は相手の心理を利用して裏をかく戦略を推奨し、宮本武蔵は相手の心理を読み、戦術に活かすことを推奨しています。

 時代的には、孫子の兵法は紀元前5世紀頃の春秋戦国時代に書かれたもので、五輪書は17世紀の徳川幕府初期に書かれています。どちらも戦国の世を生きた人による生々しい人生哲学なので、とても説得力に溢れていますね。現代のビジネスにも十分応用の効く魅力的な書物と言えるのではないでしょうか。

2020年3月4日水曜日

休校中の学生へ 歴史学学習のススメ

 現在コロナウイルスで多くの小、中、高校が休校していると思います。そんななか、休校中にやることをもて余している方も多数いると思われます。それならば、サカタは歴史学を学ぶことをおすすめします。理由は、過去の人間がやってきたことを学ぶことで、これからの自分の人生を有意義に変えていけるからです。人は経験を積んで成長していく生き物です。現在人の平均寿命は日本では80歳半ば位なので、自分だけの経験値は80年程になります。しかし、人類の歴史は古く、確かな記述が残っている戦国時代から考えただけでも、500年ほどの年数があり、その時代に生きた人で詳しい記述のある人は100人はゆうに越えていますので、500倍の人生経験を吸収出来ることになります。そう考えると、歴史を学ぶことは自分の人生経験を擬似的に倍増し、人生を有意義にするための特効薬のようなものと言えるのではないでしょうか。また、若い内から学ぶことで、自分よりも年上の人より、人生経験を学んでいる状態になり、優位にたてることがあると思います。

 もし、少しでも自分の人生を有意義にし、他の人よりも先んじたいと思っているのでしたら、歴史学を学んでみてはいかがでしょうか?ゲームからでも小説からでもお好きなものからでもいいのでおすすめします。

2020年1月15日水曜日

孫子の兵法2

 前回に引き続き今回も孫子の兵法を解説していきたいと思います。四章 形篇、五章 勢篇、六章 虚実篇を書いていきたいと思います。

 『四章 形篇』
 孫子曰く、戦闘に勝利を収めたのち、天下中の人々が立派だと誉め称えるようでは、優れたものとは言えない。我々兵法家の間ですぐれていると称されるものは、容易に勝てる体勢の敵に勝つものである。それだから優れた者が戦う場合には、世間を驚かせるような奇抜な勝利もなく、智将だとの名声もなく、勇敢な武功もない。したがって彼の勝利にはいささかの危なげもない。何ら危なげがないわけは、あらかじめ勝利を設定した状況が、態勢として、敗れている敵に勝つようになっているからである。
 巧みに戦うものは、決して敗れる恐れのない態勢に身をおいて、敵が敗れ去る機会を逸しない。つまり、勝利する軍は勝利を確定してから、予定通り実現しようと戦闘するが、敗北する軍は、まず戦闘を開始してから、そのあとで勝利を追い求めます。
 こうした勝ち方は、そのような態勢で戦えば、誰でも勝つのが当たり前だと見なされ、世間の評価は得られないものです。世間の人々がもてはやすのは、土壇場での奇策による大逆転や、優先奮闘でもぎとった勝利です。ですがそれは、劇的なぶんだけ、実は際どい辛勝であったとしなければならないと孫子はいっています。そうした賭博に等しい戦闘を排斥し、戦闘をより確実性のあるものにして当然のごとく勝てと孫子は主張しています。

 『五章 勢篇』
 孫子曰く、水が激しく流れて石をも漂わさせるまでに至るのが、勢いである。だから巧みに戦うものは、その戦闘に突入する勢いが限度いっぱい蓄積されて険しく、その蓄積した力を放出する節は一瞬の間である。勢いを蓄えるのは弓の弦をいっぱいに張るようなものであり、節は瞬間的に引き金を引くようなものである。
 勢は、蓄積と発射の二段階より構成されます。前者は限界までエネルギーを蓄積する作業です。蓄積したエネルギーの大小によって発射後の勢の強弱が決定します。また、後者は蓄えたエネルギーを瞬時に発射し、静的エネルギーを動的パワーに転換する作業です。発射に要する時間が短いほど、目標物への衝撃力は強大となります。つまり、エネルギーの蓄積量が大きく、それが短期間のうちに発射されたとき、破壊力はもっとも強大となります。こうした見方をすれば、戦場への兵力の逐次投入は、わざわざ破壊力を弱めて小出しにするもので、孫子の説く勢の理論に反するものになります。身近な例で言えば、仕事や学習などの短期集中のやり方がこれに当たるかもしれませんね。より集中力を持って短時間で行えば、効率は最大化されるというようなものかもしれません。

 『六章 虚実篇』
 孫子曰く、巧みに軍を率いるものは、敵軍には態勢を露にさせておきながら、自軍の側は態勢を隠したままにする。自軍は敵軍の配置が判明しているから、不安なく兵力を集中するが、敵軍は自軍の配置が不明なため、すべての可能性に備えようとして、兵力を分散する。自軍は全兵力で一つの部隊となり、敵は十の部隊になれば、それは、敵の十倍の兵力で見方の十分の一の敵を攻撃することを意味する。つまり、寡兵で大軍を撃破できるのである。
 ここで孫子は、総兵力で優勢な敵に対し、敵の兵力を分断することで相対的有利を作り出し、敵を打ち破ることが可能だと言っています。この戦術は、かなりの高等技術が必要となりますが、成功したときの威力は絶大だと言えます。そして、この戦術をとるためには以下の三つのことが必要になります。
 ・第一に自分達の部隊は自分達の土地を守ることを放棄します。戦力の劣勢により、守備に人手をさく余裕がないからです。そして、部隊を一つにまとめます。
 ・第二に自分達の戦略を偽装して、敵に悟られないようにすることです。偽の情報を流したり、自軍の部隊を隠したりして、敵を油断させ、敵の兵力集中を阻止します。
 ・第三に急速な兵力集中による奇襲の実現です。敵の各個撃破が目的であるので、敵の終結よりも速く次々に撃破するための進軍スピードが必要です。
 以上の三点が確保されたとき、総兵力では優勢な敵を劣勢な兵力で圧倒出来ます。その結果として、いったんは放棄した土地の防衛も自ずと実現できるのです。つまり、至るところを守備せんとする歩哨線方式の防御戦法は、戦力はおろか結局は土地すらも守りきれぬ愚策であると孫子は言っているのです。
 これを実際に行った人物として、日本の織田信長があげられます。有名な桶狭間にて、今川義元を討ったあの戦いは、孫子の兵法に準ずるものではないでしょうか。このブログでも過去に桶狭間の戦いを記事にしてますので、興味のあるか方は是非一度読んでみてください。

桶狭間の戦い 背景
http://bishamondou.blogspot.com/2019/10/blog-post.html?m=1

 以上で今回の記事は終わりです。いかがだったでしょうか?今回は孫子の兵法の濃い内容に入ったので、少し難しく感じた方もいらっしゃったかも知れませんが、含蓄の深い章だったことと思います。次回は第七章 軍争篇です。こちらも興味深い内容となっています。是非ご覧ください。

2020年1月9日木曜日

孫子の兵法 1

 孫子の兵法は、全部で13章まで記されている書物で、竹簡という当時の紙の代わりのものにかかれています。13章を以下に記します。

一章 計篇
二章 作戦篇
三章 謀攻篇
四章 形篇
五章 勢篇
六章 虚実篇
七章 軍争篇
八章 九変篇
九章 行軍篇
十章 地形篇
十一章 九地篇
十二章 用間篇
十三章 火攻篇

 このようになっており、書かれている内容は濃いものの非常に短くまとめられています。今回から少しずつ一章から順番に、ためになる部分だけを抜粋して記していきたいと思います。

 『一章 計篇』
 軍事とは、国家の命運を決する重大事である。国家の存亡に関わる進路の決定には以下の五つの基本事項に自国と相手国を当てはめて、比較することが重要になる。

一 内政の正しい在り方。民衆の意思を統治者に同化させること。

二 気候状態のこと。日陰と日向、気温の低い高い。

三 地理的なこと。地形の高い低い。国土や戦場の広い狭い。

四 指揮する将軍の能力。

五 軍法。賞罰がきちっと執り行われているか。

 戦争は、数多くの事象が複雑に絡み合う複雑極まる事象である。よって、偶然に左右される側面も当然付きまとうが、大局的に観れば総合力で優勢な方が最後に勝利をつかむ。冷静に計略を進めるならば、両軍の敗死と生存とを分ける進路が何であるかが、鮮明に浮かび上がってくる。そこで、確実な勝算が得られた場合にのみ開戦に踏み切り、あらかじめ策定した戦略に従って、予定された勝利を実現するのである。勝算がたたない場合は、勝利の条件が整うまで戦争を回避する方向に努めなければならない。これこそが、戦争を指導する者の何よりも重大な義務である。

 この項は太平洋戦争時の日本に言ってやりたくなる言葉ですね。大国アメリカと戦って勝つ算段が本当にあったのか甚だ疑問であります。まあ、当時の日本の立場もあったとは思いますが。

 『二章  作戦篇』
 一挙に勝敗を決する戦争携帯を想定したとき、周到な用意と莫大な経費が必要となる。従って、空しく日時を費やす野戦での長期持久戦や多大な犠牲を強いる攻城戦、あるいは徒労の長期出兵などは国家経済を破綻させる下策として、非難する。この道理が理解できないものが将になれば国家は経済的に破滅する。よってそのような者は将として失格である。

 この項は大日本帝国の大東亜共栄圏が如何に補給路が延びきったものであったかを連想させます。

 『三章 謀攻篇』
 およそ軍事力を運用する原則としては、敵国を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵国を撃破して勝つのは次善の策である。つまり、敵の軍団を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵の軍団を撃破して勝つのは次善の策であるということだ。したがって、百度戦って百度勝利を収めるのは、最善の策ではない。実際に戦闘させずに敵の軍事力を屈服させることこそが最善の策である。
 戦争とは、あくまで自国の利益を他国と争い、そのために戦うことであって、戦闘によって軍事的勝利を争うのは、その一つの形に過ぎない。敵国の意図を挫く点にこそ戦争の本質があることを深く認識すれば、戦わずにして勝つことを強調する孫子の言葉が、戦争の真理をついているということにならないだろうか。

 以上で今回の記事は終わりです。いかがだったでしょうか?計篇や作戦篇や謀攻篇は現代でも応用すれば色々なところで使えそうですよね。例えば、計篇や謀攻篇はライバルとの出世争いに、作戦篇は家計の使い方などにうってつけではないでしょうか?
 次回は形篇からです。こちらも現代に活用出来そうな有益なことが書いてありますので、是非ご覧ください。

2020年1月8日水曜日

『孫氏の兵法 序章』の動画化

 『孫氏の兵法 序章』を動画化しました。下記にアドレス添付しました。ぜひご覧ください。今回は顔出ししました。慣れないので聞き苦しいところもあるかもしれませんが、文章ではわかりづらい部分もあると思いますので、ご覧ください。 
 

▼YOU TUBE アドレス
https://youtu.be/tbllg5JijMk

2020年1月5日日曜日

孫子の兵法がなぜ今必要なのか?

 最近書店でまた孫子の兵法に関する本をみるようになってきました。よく、自己啓発本やビジネス書の欄に並んでいたり、中には漫画になっているものもあります。しかし、よくよく考えてみると孫子の兵法が著されたとされるのは今からおよそ2500年前です。そんな昔の本がAIや5G時代に突入すると言われている昨今で必要なのか?と疑問に思う方が大半ではないでしょうか。

 私としては、孫子の兵法を読むことは非常に意味のあることだと思います。その理由は孫子の兵法は、過去に時代を越えて読み返されてきた歴史があるからです。有名なものとして例をあげると、戦国時代にあの武田信玄が旗印として掲げていた「風林火山」です。

武田信玄wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/

「風林火山」は孫子の兵法の一説に記されています。日本の戦国時代は1400年代後半から1600年の間ですが、そのときすでに2000年の年月がたっているにも関わらず、一軍のスローガンたる軍旗に掲げるほど重用しています。当然、孫子の時代と武田信玄の時代では扱う兵器が違いますし、更に日本と中国で地形も文化も違います。それでも、信玄が軍旗に掲げた理由というのは孫子の戦術や戦略の実用的な部分に惹かれたのではなく、思想や観念的な部分に惹かれたためであると考えます。
 また、もうひとつ例をあげると18-19世紀のプロイセンの軍事学者クラウゼヴィッツは、西欧近代兵学の代表的な人物ですが、その思想は軍事力の正面衝突による多大な犠牲をはらうものでした。

クラウゼヴィッツwikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/

その影響を受けたのが当時の大日本帝国です。当時の日本は急速な近代化のため、プロイセンの考え方を模範としていました。そして、その後の太平洋戦争でアメリカに手痛い敗戦を喫したのは言うに及ばずだと思います。その西洋近代兵学による敗戦も、孫子の兵法を活用すれば違ったのではないかと言った人物がいます。それは、フランスの軍事学者リデルハートです。

リデルハートwikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/

彼が20世紀に記した著書の『戦略論』の巻頭には孫子の兵法の引用が数多く存在します。なんと約2500年もの歳月を越えても尚、重用されていたのです。

 それでは、孫子の兵法とはどういうものなのか。よく勘違いされるのは古い戦術や戦略を駆使し、必勝の戦い方を記している使えないものと考えられているかもしれません。しかし、内容をよくみてみると、要約すれば『あらゆる戦いに負けないための心構え』を記しています。必勝より不敗に重点をおいているのが孫子の兵法です。孫子の生きた紀元前5世紀ごろの中国は春秋時代で群雄割拠の時代でした。まさに弱肉強食の日本の戦国時代のような時代です。そのような時代において、生き残るためにはどうするべきかと必死に考え出来上がったのが、孫子の兵法です。

 コンプライアンスやモラルに関する世間の目が厳しくなる現代において、他者への配慮を欠く行動や言動が問題視されており、協調性の必要性が叫ばれてはいますが、その一方で資本主義国家である日本において他者との競争が無くなるはずがありません。むしろ企業間で言えば世の中の移り変わりの速さから、生き残りをかけた競争は激しさを増しています。そんな現代だからこそ、負けない哲学としての孫子の兵法が必要なのではないかと私は考えます。それでは次回から孫子の兵法の詳しい内容に入りたいと思いますので、読みたいと思う方は是非ご覧ください。

参考文献:『孫子』浅野裕一
https://www.amazon.co.jp/

2019年10月16日水曜日

桶狭間の戦い 背景

 おそらく歴史が好きでない方でも、一度は聞いたことであろう桶狭間の戦いですが、この戦いの結果はご存じの方が多いと思いますが、この戦いの背景などはあまり知らない方もいるのではないでしょうか?今回はこの桶狭間の戦いの背景を解説したいと思います。

・戦力の差
今回の織田信長と今川義元との戦力差がどれほどあったかを示します。

織田信長
年齢:27歳
版図:尾張半国(実質5分の2)
石高:17万石
兵力:4000
世間の評価:うつけ(馬鹿)

今川義元
年齢:42歳
版図:駿府・遠江・三河
石高:100万石
兵力:25000
世間の評価:東海道一の弓取り(尊敬)

 これほど国力の差があれば、信長が義元に勝てる見込みはないと言い切れるでしょう。これだけの戦力差を覆した大逆転劇は歴史上類を見ません。また、泣けるのは世間の評価でこれほどまでに評価が低い信長と逆に評価が高い義元の違いから、世間がこの戦いの行く末をどのように思っていたのか想像できます。さらに年齢をみると脂の乗った年齢である義元に若造の信長が勝てるとは到底思わないでしょう。


・心境
 続いて心境について解説します。

織田信長
 勝てなければ滅亡。家臣団は林通勝を筆頭に籠城戦を主張しているが、籠城をして勝てた戦はかなり少ない。亡き父の信秀も戦は領地の外と訓戒していた。ならば、一か八か攻めるしかない。

今川義元
 足利幕府の没落により、足利家、吉良家に次ぐ将軍高家の今川家が上洛することにより世間を収めることを家臣どもから勧められたため、仕方なく上洛。また、田舎の駿府での都をまねた派手な暮らしに飽き始めてきたし、他にたいしてライバルもいないし、天下取りという娯楽を楽しもうと考える。

 以上が二人の心境です。このように神経ピリピリだった信長に対して、かなり油断している心境なのが義元です。このような心境の差が雨の助けもあって信長の勝利を呼び寄せたといっても過言ではありません。また、当人だけでなく部下にまでこの心境の差はあったと思います。それが、人数でいう4000対25000の差を埋めたのでしょう。

・戦況
 続いて桶狭間に至るまでの戦いはどうであったかを列記します。

①丸根砦攻防戦
 初戦は織田方が有利だったが、織田軍400に対して今川軍2500の戦力差は埋めがたく、今川軍の勝利。織田方の将は佐久間大学で戦死。ちなみに今川方の将は松平元康で後の徳川家康です。

②鷲津砦攻防戦
 こちらも丸根砦攻防戦と同じ時間にせめられ丸根砦が落ちて間もなく、落城。織田軍数百。今川軍2000。今川軍の勝利。今川方の将は朝比奈泰能。

③鳴海方面遭遇戦
 ②後に起こった戦い。織田軍の右翼隊500が今川軍の大軍と遭遇し壊滅。織田軍には若き日の前田利家が参加。今川軍の勝利。織田方の将佐々隼人正戦死。

 このようにすべての戦いで今川方が勝利を収めています。敗報が信長に飛び込んでくる中で信長や彼の配下はどんどん気を重くしていったことでしょう。心境的にはさらに決死の覚悟が強くなったと思います。しかし、信長は野戦をすることをやめませんでした。籠城すれば必ず負けると信じていたからです。これらの報告も馬上で今川方のもとに向かいながら聞いていました。そしてそれとは逆に今川方は数々の勝利に気をよくして、田楽狭間で昼弁当を食べるという余裕を見せます。しかし、これが信長の奇襲を成功させてしまうのです。突撃したときは強く雨が降った後の少しやんだ状態だったそうです。今川軍は雨を避けるために今川方の本軍の兵5000は散り散りになって防戦がうまくできませんでした。そして信長軍の毛利新助に討取られてしまうのです。



2019年9月22日日曜日

大河ドラマ 名演紹介 風林火山の動画化

風林火山の記事の動画化をしました。


ぜひご覧ください。

2019年9月18日水曜日

大河ドラマの好演俳優リスト(2007年放送 風林火山編)

 私は、歴史が好きですのでよく大河を見るのですが、主役はもちろんの事脇役の方の名演技に感動することがよくあります。そこで今回は、風林火山(2007年)の作品で武将のキャラと俳優のキャラがベストマッチしたケースをご紹介しようと思います。

  『板垣信方(千葉真一)』
 板垣信方は、武田家の重臣で両職の一人と言われています。武田信玄の父である武田信虎を追放後は、武田家の屋台骨的な存在で中核を担っていた存在です。しかし、板垣は武田信玄が村上義清との上田原の戦いで先方となり初戦は勝利しますが、逆襲を受けて討死します。そんな屋台骨的な頼りがいのある板垣を千葉真一は見事に演じており、最後の討死のシーンは圧巻です。



 『宇佐美定満(緒形拳)』
 宇佐美定満は上杉家の軍師で、上杉謙信に仕えました。宇佐美定満は上杉謙信の若かりし頃から存在し、謙信を軍事の面でサポートした頼れる切れ者です。宇佐美定満は謙信と抗争していた、長尾政景を暗殺するため野尻湖へ舟遊びに誘い、船底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈み死亡したとされています。そんな忠義に厚い宇佐美定満役を緒形拳が熱演しています。出番はあまり多くないですが、要所をしっかりとしめるような画面に映るだけでも存在感があります。



 『上杉謙信(GACKT)』
 風林火山で一番異例の抜擢で、なおかつ一番異彩を放っていたのがGACKTでしょう。ミュージシャンが上杉謙信をやることは今後ないと思いますが、それぐらい異例の配役であるのに関わらず、ハマっていました。上杉謙信の神々しいまでに強く、気高い感じがGACKTの人間離れしたような雰囲気にマッチしたのでしょう。今の若い人はGACKTというと芸能人格付けチェックという番組で出ているくらいにしかわからないかもしれませんが、当時は彼のような若い、イケイケのロックミュージシャンが謙信役をここまでこなすことに誰も想像だにしなかったように思え、一番意表をつかれたという印象を強く受けました。特に小田原の戦いで謙信が小田原城の門の前で相手が矢や鉄砲を撃つ中一人酒を悠々と飲み、その姿に相手の北条氏康が「我々はあんなやつと戦っているのか」と嘆き一度も門の外に出なかったというエピソードが一番好きです。





 以上で風林火山の好演俳優紹介を終えます。なかなか粒ぞろいな配役で面白かったですが、自分としては武田信玄が残念で、感情移入できなかったのを覚えています。それ以外のキャストは素晴らしかったのですが。。。

2019年9月15日日曜日

孔子のライバル 陽虎の動画化

孔子のライバル陽虎を動画化しました。


https://youtu.be/vNV1WbjLcmg

ぜひご覧ください。

孔子のライバル 陽虎

 季孫意如の家老だった陽虎は季孫意如が亡くなると、公山不狃と仲梁懐という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。その状況から孔子を陥れようとしていた少正卯は孔子は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔子と陽虎達を戦わせ、孔丘が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔子は陽虎の軍と戦うことになります。孔子も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔丘軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では長い間、祖国から離れて行軍していたものが多く士気が低下していました。また、孔子の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、孔子軍の大勝利で終わります。

 少正卯の目論見は外れて、陽虎の敗走軍は次の一手を思案していると、少正卯が小姜と小虎という陽虎の妻と息子を連れてきました。この二人は、陽虎のことを大変憎んでいるのだということを陽虎に伝えました。陽虎は何か自分にとって不都合なことがことがあるとこの二人に暴力をふるって憂さ晴らしをする癖があり、そのため2人の家族は陽虎のことを心底嫌っていました。陽虎はこのときもいつもと同じようにこの2人に暴力を働きました。そして、この二人をその場に置きざりにし去っていきます。この二人は瀕死の状態で孔子の軍に保護されますが、陽虎はそれから追っ手に追われて魯国から逃げて、宋・晋を転々として、晋の趙鞅に召し抱えられました。趙鞅は全家臣の反対を押し切って陽虎を召し抱えてました。陽虎の統率力と政治能力を高く買ったのでしょう。これを恩に感じた陽虎は趙鞅に忠誠を誓い懸命に仕えたそうです。また、このとき魯の国を出た孔子に再会し、孔子の弟子たちの力を知っていた陽虎は孔子を晋の国に来ないかとさそいますが、孔子は断ったといわれています。

2019年9月12日木曜日

孔子のライバル 少正卯の動画化

孔子のライバル少正卯の動画化をしました。


ぜひご覧ください。

2019年9月11日水曜日

孔子のライバル 小正卯

 季孫意如が亡くなるとその家老職の陽虎という人物が公山不狃(こうざんふじゅう)と仲梁懐(ちゅうりょうかい)という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。そこで、少正卯が国王に進言し、今の国情では陽虎達を倒すことはできないので、各国から掃討軍を募り対抗させてみてはどうかと提案し受け入れられます。計6国の軍隊が魯の国に駐留し陽虎の軍を追い払うことに成功しますが、今度は6国の軍隊が魯の国の治安を脅かすことになり、国内は更に治安が悪化します。どうにもいかなくなった少正卯は孔子を長官にし、問題に対処させてみてはどうかという提案をし、孔子は弟子たちと相談し、論じてばかりでは本当の大道を得られないのではといわれ、魯の国の長官になることを決意しました。その後孔子は、まず6国の軍の筆頭である斉の国に使者として、弟子の子貢を遣わせ、外交政策をうまく行い、斉の国をうまく操り、6国の軍を撤退させることに成功しました。その後、孔子は内政を充実させる政策を次々に打ち立てて国力を回復していきました。しかし、そんな状況を面白くないと思った少正卯は、孔子は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔子と陽虎達を戦わせ、孔子が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔子は陽虎の軍と戦うことになります。孔子も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔子軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では孔丘の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、士気は低かったのが原因で、孔子軍の勝利で終わります。

 陽虎を討伐した孔子はその功績で大司空に任ぜられ、益々王宮での発言力が増します。そんな折、少正卯も大司馬と呼ばれる軍事の最高職につき、同じく発言力を増していました。

 ある日、子路と冉有と子貢は兵の訓練後に、自分の資金で酒を買い兵をもてなしました。それを聞いた孔子は、兵の私物化が魯の国力の衰退をまねいたからと、その三人を厳しく咎め、精強に育て上げた兵達を大司馬の少正卯に引き渡すように言います。子路たちは反対しましたが、孔子の意思は固く、兵権は少正卯のものになりました。
 兵を返すやいなや、少正卯は淑孫氏と孟孫氏と共謀し魯国の都である曲阜(きょくふ)に攻めこみ、定公と孔子を亡きものにしようと画策します。季孫斯と孔子はこれに対抗し曲阜を守るのですが、少正卯の軍は5000に対し、孔子は近衛兵のみの僅か100程の兵しかなく、戦況は圧倒的に不利でした。また、少正卯は100程の兵を曲阜に忍ばせてあり、開戦間もなく、門は破られ定公と孔子と季孫斯は季孫家の屋敷のなかに逃げます。多くの敵兵に囲まれ、万事休すのところを、遠方地に派遣されていたかつての精鋭を呼び戻し、帰還した子路の戦車部隊が到着し、包囲を解きます。それを見た淑孫氏と孟孫氏は逃げようとしますが、少正卯はまだ戦車部隊が数百来ただけだから勝算はあると解きますが、理解されず一人曲阜に取り残されたところを捕らわれます。そして、謀反を煽ったとされ罪を一身でかぶり処刑されます。季孫斯宛の一冊の竹簡を遺して。
 少正卯がいなくなり、孔子の唯一の憂いは定公よりも三桓氏の権力が圧倒的に勝っているという事でした。そこで、三桓氏の私兵を魯の軍として参入させることと、三桓氏の領地の城壁を下げる事で権力を定公の元に集約しようと画策します。これには淑孫氏と孟孫氏が猛反発しますが、孔子は毅然としてこの態度を崩さず、弟子たちもまだ時期尚早だからやめた方がいいと止めますが、孔子は聞き入れませんでした。間に入っていた季孫斯でしたが、淑孫氏と孟孫氏の讒言に逆らえず、また、少正卯の竹簡にかかれたことが頭から離れませんでした。それは、孔子は魯の国を自分のものにしようとし、三桓氏を必ず追い出すようになるため、用心しろと言う内容でした。
 そして、季孫斯は今までの恩を仇で返す仕打ちをしてしまいます。魯の国の先代を祭る祭典の進行役に孔子を指定しておきながら、別の場所で季孫斯を進行役にした祭典を開き、孔子に恥をかかせます。これに愛想を尽かした孔子はこれ以上この国にいることの無意味さを悟り、弟子たちと共に魯の国を出ることにしたのです。

 小正卯は死して手紙ひとつで孔子を出奔させることに成功したのです。なかなかの奸雄と言えるでしょう。また、孔子も小正卯にしてやられたと後々も語ったとされ、ずる賢さでは小正卯の方が数段上だと言えるでしょう。

2019年9月8日日曜日

孔子の上司 季孫意如

 今回は孔子の上司である、季孫意如(きそんいじょ)を紹介します。季孫家は魯の国の王族の家柄です。季孫家はその中でも三桓氏の筆頭です。三桓氏とは魯の国の王族の家柄の者を指し、季孫家以外にも孟孫(もうそん)家、叔孫(しゅくそん)家があります。季孫意如と孔子とのはじめの接点は、孔子が若い頃に母親の亡骸を遺言通り父親のお墓に入れてやりたがっていましたが、母親が妾であるために、墓の場所を教えてもらえずにいたときになります。魯の王宮では孔子の噂が広まっていました。こんな乱世に親孝行な奴だと孔子を誉めた人物がいました。三桓氏筆頭の季孫意如(きそんいじょ)です。季孫意如は孔子の父である孔叔粱の墓の場所を孔子に教え、また孔子に官職を授け、倉庫を管理する委吏(いり)にします。その恩に報いるため、孔子は持ち前の誠実さと学識で実務をこなしていくうちに借金の帳簿に誤りがありことを知ります。当時、魯の王様襄公は三桓氏に借金をしているため、三桓氏の顔色を伺わなければいけない立場にありました。しかし、帳簿の記録を元に遡っていくと、実際は三桓氏が襄公に借金をしていたのです。それを上司である季孫氏に報告したのですが、当然受け入れられる訳もなく、季孫氏は襄公に知られる前に記録のすべてを焼き払い、襄公に真実を伝えられることはありませんでした。季孫氏は孔子に要職を任せると優秀であるがために、自分を脅かす存在になるのではないかと孔子のことを恐れたため、乗田という羊飼いの職につかせることにしました。しかし、しばらくすると孔子は母親の二つ目の遺言を果たしたいので宋にいかしてほしいと願い出ます。孝行者の孔子の更なる孝行の願いでもあるので、認めざるをえないことと、認めてあげれば自分の仁者としての名声も上がると判断した季孫氏は承諾します。

 孔子が無事二つ目の遺言を叶えて戻ってくると、魯の国は腐敗しきっていました。闘鶏が国中で行われており、しまいには王と三桓氏らによる全財産をかけた闘鶏が行われようとしていました。しかし、これは互いにいかさまが露見し無効になります。そんな騒動が行われるなか、魯の王様襄公は三桓氏の陰謀にはまり国を追い出されてしまいます。襄公についてくるのは古くからの家来を含めても、孔子とその弟子たちだけでした。そして、年老いていた襄公はとなりの斉国で息絶えます。孔子に「誠の忠臣はそなただけだったな」という言葉を囁いて。襄公の亡骸を魯の国に運ぶと、三桓氏たちは声を揃えて「何を今さらもどって来たのだ。まるで、私たちが悪いことをしたみたいではないか」という言葉をかけたのですが、季孫意如だけは「よく戻ってきた。我々が間違っていた。」と言ったそうです。この頃、季孫意如は病に臥せっており、襄公を追放した後にさらに魯の国が混乱したことに責任を感じていました。そして孔子に「私の息子を導いてくれ」と遺言し、息を引き取ります。孔子は「あれほど聡明な季孫様でも見誤ることがあるのか。」と嘆いたと言われています。また、遺言通り季孫意如の息子の後見人になっていきます。

 優秀な人物でも回りが悪いと本領を発揮できないものです。孔子が認めた人ですし、僕も季孫意如は優秀な人物で、かつ無名の孔子を賞賛したところに慈悲もあった人であると思います。

2019年9月7日土曜日

孔子の父 孔淑梁の動画化

孔子の父 孔淑梁を動画化しました。

 https://youtu.be/-YZLBVI7FaY


よろしければコメント等よろしくお願いします。

2019年9月6日金曜日

孔子の父 孔叔梁

今回は孔子の父、孔叔梁(こうしゅくりょう)について紹介したいと思います。孔叔梁は魯の国の将軍です。ある日孔叔梁は魯の国の王襄公に命じられ、斉の国に潜入していました。楚の国の特使である熊伯に不穏な動きがあり、熊伯の行動を監視し、ことによっては暗殺する任務についていました。しかし、この任務はとても危険を伴う任務でした。なぜなら、斉の国は魯の国と敵対しており、潜入していることがばれてしまえば、すぐに斉の国の兵がやってきてしまいます。さらに、孔叔梁の軍は潜入任務のため、少数しか連れていませんでした。そのため、戦いになれば万が一にも勝てる見込みがありません。そんな中、熊伯が睨んでいた通り、楚の国と斉の国が手を組んで魯の国を攻め立て、分割統治をしようという話を始めました。それを聞いた孔叔梁は、直ちに兵を動かし熊伯を倒しましたが、斉国の兵が援軍を呼びに宮殿へ駆けていきました。そして、援軍が直ちにやってきて孔叔梁の一隊を襲撃しました。孔叔梁の一隊は、それにより壊滅し、孔叔梁も瀕死の重傷を負いました。その傷をみた、顔徵在という熊伯の奴隷は何を思ったのか、孔叔梁をその場から連れ出し、魯の国に向けて逃亡しました。なんとかその場からは逃れたものの、季節は冬で極寒の中大の男を抱えての足取りは重くなかなか、歩みを進められませんでしたが、なんとか魯の国にたどり着き、孔叔梁は命を取りとめることができました。彼らはその後、尼丘山で婚約を交わし、子供を授かります。その子供が孔丘といい、後の孔子となります。そして、孔叔梁は自分のもうひとつの家族があるみだったので、顔徵在は妾になるのですが、顔徵在に平民の位を授けてもらうように進言しました。孔叔梁は先の熊伯暗殺の功で称賛されていたため、進言は受け入れられました。その後の戦いで孔叔梁は戦死しますが、孔叔梁の勇敢さは子供の孔丘に引き継がれました。そして、母の慈悲深さも受け継がれて、子の孔子は魯の国を代表する偉人となってゆくのです。

2019年9月5日木曜日

孔子の母 顔徴在の動画化

孔子の母、顔徴在を動画化しました。

https://youtu.be/lV00fifx_tI


ぜひご覧ください。

孔子の母 顔徵在

今回は孔子の母を紹介したいと思います。孔子の母である顔徵在は、斉国の出身で家族が軍に皆殺しにされて仇討ちのため人殺しをして、処刑されるところでした。冒頭から壮絶ですが、そんな顔徵在を熊伯(ゆうはく)という楚国の特使に奴隷として使いたいからと命を助けられます。しかし、顔徵在は家族を失った悲しみから、命の恩人の熊伯に心を開くことはありませんでした。そんな折り、熊伯が楚国と斉国で弱小である魯国の分割統治をしようと企みます。しかし、この企みは、少数部隊で潜入していた孔叔梁(こうしゅくりょう)の耳に入り、熊伯を暗殺しますが、孔叔梁も傷つきます。顔徵在はその孔叔梁を懐抱しながら、魯国へと一緒に向かうことになります。目の前で傷ついている人を放っておけない良心の持ち主であったのでしょう。途中雪が降り、山賊に襲われそうになりながらも、少しずつ歩みを進め、なんとか無事魯国にたどり着くことができました。孔叔梁には、妻と子供がいたのですが、孔叔梁の功績により、魯国より顔徵在を内縁の妻として住まわせ、魯国の平民の身分を与えられました。そして、子供を授かります。それが後の孔子になります。その数年後、孔叔梁は戦に敗れ命を落とします。孔子は物心ついたときから、母親である顔徵在一人の手で育てられました。顔徵在は立派であった父親の子であることに誇りを持つようにと、孔子が10代のときに各国へ旅に出て世界を見るように言います。そして、数年間各地を旅して帰ってきた頃に顔徵在は重い病に臥せってしまいます。孔子は悲しみますが、顔徵在は気丈に振る舞い、孔子に「男たるもの人前で涙を見せるものではない」と叱ったそうです。そんな顔徵在もついに病に命を落とします。孔子は、母の遺言である父と同じ墓に入れてほしいという願いを叶えるべく、母の亡骸を棺にいれたまま、魯国中を歩き回り、孔叔梁の墓はどこですか?と聞いて回りつづけ、国中で噂になるようになります。そんな噂を聞き付けた、魯国の大臣が孔子の孝行ぶりに感心し、顔徵在の亡骸を孔叔梁と同じ墓に入れたそうです。孔子は、母親の慈悲深さと父親の忠義心を受け継いだ立派な青年に育っていきました。そして、顔徵在は自分の育てた息子に自分の望みを叶えてもらえたのでした。

2019年9月1日日曜日

孔子の弟子『顔回』の動画化

 孔子の弟子『顔回』の動画化をしました。

 https://youtu.be/ryM8qZpFpXI  



ぜひ一度ご覧ください。

孔子の弟子 『曾参』

 孔子の弟子シリーズ2つめは曾参です。彼は、孔子から『考』(親孝行)の道に秀でており、考についての考え方は孔子よりも優れていると言われたほどです。また、彼は学識も優れており孔子や顔回とともに学問の話をよくしていたと言われています。彼は親孝行の性格でよく知られていますが、こんなことわざも作られています。彼の母親は曾参のことを信用していたのですが、曾参の使いのものから曾参が人を殺したという話を聞かされます。彼の母親はそれは嘘だろうと一度は思ったのですが、何度も何度も同じことをいう人がいたので、とうとう信じてしまい、慌てふためいたそうです。実際は曾参の親戚が人を殺したみたいだったのですが。
 その事から「曾参、人を殺す」という言葉は、あまりに信じがたい嘘でも何度も言われると信じてしまうこともあるという例えになっています。そのような説話になるほど当時の人々にとって曾参が親孝行ということが知れ渡っていたということになります。
 孔子も彼のような賢く、親孝行な若者を好んでいたようで、孔子の孫の子思は彼に従事していたと言われています。余談ですが、子思に従事したのが「性善説」を書いた孟子です。曾参も後に曾子となり、朱子学の4聖と言われるようになります。孔子も実の母親が亡くなったときに、父親と同じお墓に入れてほしいと遺言で頼まれていたのですが、父の墓の場所がわからなくて、棺の中に母の亡骸を入れたまま何日も歩き回ったという逸話があります。そんな、親孝行の2人だからこそ話が合うところもあったのも知れませんね。