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2019年9月22日日曜日

大河ドラマ 名演紹介 風林火山の動画化

風林火山の記事の動画化をしました。


ぜひご覧ください。

2019年8月24日土曜日

高橋紹運の記事を動画化

 先日高橋紹運の記事を動画にしたのでリンクを載せます。

https://youtu.be/nYVwgDjqW0E



コメント等いただけたら幸いです。


2018年6月9日土曜日

斎藤道三 再考


美濃の蝮の本当の姿とは?

 前回でも斎藤道三の記事を書いているのですが、自分の地元から近いこともあり、再び深く考えてみることにしました。そこで前回は非家庭人であると評していたり、一介の油商人と評していたり色々と認識が甘かったのではないかと思い、再び記事にしてみました。

 『一介』の油商人ではない
 前回は一介の油商人と言っていたのですが、その実、京都にある奈良屋という京都有数の商家に婿入りしていました。そこで稼いだ莫大な資金は、後年美濃を自分の手中に納める際の軍資金にしていました。因みに婿入りする前は寺で坊主をしており、そこでの学問と剣術の成績は群を抜いていたと言われています。

  非家庭人ではない
 前回は息子に裏切られて、家臣達から謀反を起こされて命を落とすのですが、息子である義龍含め家族をとても愛したそうです。特に京都にある油屋と美濃での侍としての二重生活をしていたのですが、両方に奥さんを持っていたのにも関わらず、円満な家庭環境を作っていたそうです。最終的には、家臣達の讒言にそそのかされた義龍に殺されますが。そう言ったことは戦国の世では珍しくないことであったようですし、何よりも道三自身がやってきたことであったので因果応報と言えるでしょう。

  『楽市楽座』を他者に先駆けて先行して実施
 よく信長が実施したように考えられているのですが、先に考案したのは道三のようで、油屋時代の腕をならしていた頃にこうなればやり易いと思ったことを自分の居城である岐阜城(当時は稲葉山城という)の城下で行ったそうで、各地の商人がこぞって岐阜(当時は美濃という)で商売をしたいと思いやって来て賑わっていたそうです。

 以上のように道三は野心家ではあったのですが、家庭人であり、先見性のある革命児であったのだと思います。また、自分一人で成り上がった非常に能力の高い人物だったのでしょう。そして、道三の野望は彼の義理の息子信長に引き継がれていくことになるのです。
 余談ですが、道三の甥に当たるのが明智光秀だそうで、信長も光秀も道三との関係は深かったのだといえます。そのことで、司馬遼太郎なんかは道三の坊主時代から培った『古き教養』の部分を受け継いだのが明智光秀であり、同じく道三の『時代の先をいく先見性』を受け継いだのが信長であったと言っているのですが、うまく言ったものだと思います。その二人が本能寺の変を引き起こすのですが、それも道三の生き様から習っていたのかもしれません。

2011年4月30日土曜日

高橋紹運




 高橋紹運は、九州で名高い武将です。その人間性と武勇、知略は当主やその主将を追い抜くほどです。主将の副官という立場でありながら、なぜ今日まで謳われる人物となったのか、今日は高橋紹運について書いてみようと思います。

 高橋紹運は豊後(現在の大分県)大友家第20代当主・大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれます。大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、これに豊前(現在の福岡県東部)や筑前(現在の福岡県西部)、肥前(現在の佐賀県、長崎県のほとんど)の国人が連携して反乱を起こしました。このとき紹運は、父と兄とともにこの反乱を鎮圧しました。その後、豊後の次代大名の大友宗麟によって高橋氏の名跡を継ぐことを命じられ、姓を高橋と改め、名も同時に紹運と改め、岩屋城と宝満城を与えられました。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役を務めながら筑前の支配に貢献しました。しかし、この頃から大友宗麟はキリスト教に傾倒しその名君ぶりは、影を潜め、内政をおろそかにするようになりました。そして、他国に侵略を許すようになっていくのです。

 天正6年(1581年)耳川の戦いで勝ち続けていた大友氏が薩摩(鹿児島県)の大名、島津氏に大敗を喫し衰退し始めると、肥前の大名、龍造寺隆信と筑前の大名、秋月種実は大友氏への進行を開始します。このとき宗麟は日向(現在の宮崎県、鹿児島県の一部)と筑後(現在の福岡県南部)で戦っていたために、高橋紹運が居住する筑前に援軍を送れませんでした。紹運がこもる城は孤立無縁な状況に陥りました。そこにつけいった、筑紫氏と秋月氏両大名は、紹運のいる筑前に攻め込みます。しかし、紹運は数では圧倒的な不利な状況を持ち前の知略で、援軍が来たと偽報を流し敵の混乱を誘っては、退路に味方の旗を立てさせさらに混乱を誘うという戦術を屈指し、立花道雪と協力し持ち前の武力を持ってこれを見事に打ち破ります。

 この頃から立花道雪と高橋紹運は、親交を深めていきます。互いに大友家に忠誠を誓う有能な武将だけに意気があったのでしょう。その様子はさながら実の親子のような関係であったと言われています(道雪は紹運の35歳年上)。そして、道雪は嫡男がいないことから、紹運の嫡男、統虎を婿養子として迎え入れたいと申し出ます。統虎は文武に秀で、高橋氏の跡取りとして申し分ない素質を持っていたために紹運は悩みますが、名家立花氏の存続のため、そして共に死線を潜り抜けて来た戦友のためにこの要求を呑みます。このとき息子との別れ際に「道雪殿を実の父のように慕うように」と言い、「もし、当家と立花家が対峙したときには迷い無く私にこの刀を抜け」と言って一振りの脇差備前長光を渡し、訓戒しました。
 
 天正12年沖田畷の戦いで龍造寺氏が島津氏によって討ち死にすると、大友氏は筑後奪回に向け立花道雪と高橋紹運を筑後に送りました。しかし、天正13年に主将である道雪が病死すると、事態は急変します。もともと耳川の戦いで重臣のほとんどを失っていた大友氏は、完全に浮き足だし、さらに本隊とは離れた場所にいたために援軍の期待もできず、兵士のほとんどは戦わずに逃げていきました。そこへ再び筑紫氏が宝満城に攻め入ってきましたが、紹運は残ったわずかな手勢で獅子奮迅の采配を行い何とかこれを追い返します。しかし、残った紹運の手勢はわずか700余名。次の戦で勝てる見込みは限りなく低い状況となってしまいました。

 
 そして天正14年島津氏は2万の大群を率いて大友氏を殲滅せんと、紹運の籠る岩屋城に攻め込んできました。紹運は主君大友氏を守るために、籠城し時間稼ぎをすることを決意します。戦が始まると、島津の大群を鉄砲、弓、石を猛烈に浴びせては、門を開けて打って出て、遊撃戦術を屈指し甚大な被害を与えました。戦の最中島津氏は降伏勧告を送るために、島津軍の一将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分 証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は敵味方見守る中櫓の上から、「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家 が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁 義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵方の島津軍からも感嘆の声が上がったといいます。しかし、籠城も半年が経過し水の手を切られ、兵糧も底を突き、紹運方の兵が傷の無いものはいないという状況になりました。紹運は豊臣軍が九州に迫り、大友の味方をしてくれるとことを聞き、十分に時間を稼いだと言う事実を聞かされます。そこで、紹運は玉砕を覚悟で最後の突撃を行います。紹運自身、大太刀を振り回し17人の島津兵を切りつけますが、ついに力尽き、紹運方は敵兵3000人を道ずれに全員討ち死。紹運も討ち取られました。(享年39歳)
 目論見道理、島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまいます。全員玉砕しましたが、紹運の命を賭した徹底抗戦は大友氏存続を守ることに成功しました。

 岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われました。攻め手の総大将島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったも のだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに…」と諸将とと もに涙を流し手を合わせたと伝わっています。大友家はその後も彼の働きにより存続し、大友家は江戸時代まで続くことになります。

 最後まで紹運方の兵は逃げることなく戦い続け、戦場に散っていくわけですが、たった700人の兵で敵方の兵3000人を討ち取ると言うのはなかなかできることではありません。また、半年の間に一人も脱走者がでなかったのも主従関係に類稀な信頼関係があってなせることでしょう。

 他にもこんな逸話があります。彼の正妻は病気で顔が醜くなってしまい、結婚を断ってきたのですが、彼は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま妻として迎え、その仲睦まじく、四子を儲け、家臣からも母のように慕われたといいます。

 三国志の諸葛遼孔明の妻も醜い人だったのですが、彼もそのように内面の美しさをとったようですね。彼の人間性には敬服せざるを得ません。
 
 <戦国武将パラメータ>
 統率90 武勇92 知略90 政治60 義理100 魅力99
 特徴:統率、武勇、知略共に優れている、敵からも賞賛される人間性、高い忠誠心

 この武将を評価する点
 ・欠点が無い・男の中の男・悲運の名将

2010年2月3日水曜日

斉藤道三


 卒論の提出期限が迫っていたので最近はまったく更新していませんでしたね・・・。やっと卒論が完成したのでまた、ブログ再開です。
 美濃の蝮の異名をとる斉藤道三は美濃(岐阜県南部)の戦国大名です。ちなみに道三の娘である帰蝶は織田信長の正室です。一介の油商人から美濃一国の戦国大名にのし上がったという「下克上」を体現した人物でもあります。彼はかつての主君である土岐頼芸と争い、また隣国の信長の父信秀ともしのぎを削って自分の領土を獲得していきました。彼には美濃三人衆という優秀な部下がいたのですが、決定権は道三一人に委ねられ独裁思考の人間であったことが伺えます。
 そんなワンマン社長ばりの道三ですが、思いがけない落とし穴にはまってしまいます・・・。彼は自分の嫡男である義龍は大名に向く器ではないとみなし、いつしか軽蔑するようになっていました。そしてそのかわりに弟達ばかりをかわいがっていました。内心穏やかでない義龍のもとに旧土岐家臣の者から「義龍様の本当のお父上は土岐頼芸公なのです。」と宣告されます。道三の日頃からの冷たい態度はそれが原因だったのかと納得し、義龍はその話を信じます。
 そして、義龍は家臣団と決起し道三を城から追い出して成敗しようとします。約2万の兵を動員した義龍側は、旧土岐家臣の者達を中心に、主家を乗っ取った恨みと称して本気で道三をつぶしてやろうと意気込んでいました。対する道三側は、2500の兵士しか集まらなかったのですが、ここが死に場所と道三の危機を幾度と無く支えてきた家臣たちの士気は並々ならぬものがありました。また、道三はあのうつけものになど負けるものかと勝利を確信していました。決戦の火蓋は切って落とされ、義龍の大群は圧倒的有利に道三側を飲み込んでいきます。義龍の名采配を目の当たりにし、道三はこれまでの義龍に対する人物評価が誤りであったことを認めざるを得ませんでした。そして、戦は義龍側の圧勝となり道三は討たれました。(享年63)
 ワンマン経営の一匹狼社長は、仕事のストレスを息子にぶつけ、それに我慢しきれなくなった長男がついに切れて・・・というワイドショーのような波乱劇を演じてしまった斉藤道三ならびに斉藤家。家庭の問題は現代でも戦国時代でも変わらないものなのでしょうか。

<戦国武将パラメータ>
統率88 武勇85 知略92 政治65 義理05 魅力60 
特徴:野心家、ワンマン、非家庭人

この武将を評価する点
・蝮の名に違わぬ野心家・戦上手・謀略に長ける

2010年1月5日火曜日

今川義元

 
 今川義元は駿河(静岡)の戦国大名です。彼は織田信長にかの有名な桶狭間の合戦にて敗れ去った武将として世に知れ渡っています。2万5千対2千5百の圧倒的有利にも関わらず討ち取られてしまったことから、蔑まれている節が多い義元。御輿に乗っているのも、馬に乗れないほど足が短かったと言われたり、貴族かぶれな生活をしていることから、個人的武勇は皆無などと言われたり・・・散々な言われようです。しかし、彼は本当はやり手の人物なのです。
 
 彼は、東海道一の弓取りと言われるくらい名の通った武将でした。今川家の最盛期を築き、その領域は駿河、遠江、西三河、尾張にまであり一大勢力を誇っていました。その実力から上洛(京都に赴き自身の権力を天下に知らしめること)しようとした折に信長にやられてしまいます。彼にとってはまったくの不意打ちであり、寡兵でありながら信長軍が責めてくるなど誰しも考えなかったでしょう。私は大群の今川勢を打ち破った信長を褒めるのが妥当と考えます。御輿に乗っていたのだって、将軍足利家から御輿に乗ることを許されたので、その好意に報いるためであったと思います。また、信長の奇襲から逃げるのに馬に乗っています。そして信長の家臣に追い詰められたときは自ら抜刀して立ち向かい、相手のすねを切りつけたり、指に噛み付いて頑強に抵抗したと言われています。教養が高いのはむしろいいことだし。

 そんな感じで私は今川義元を暗愚な武将だとは思いません。優秀であったが、奇襲により運悪く死んでしまった悲運の武将。それが私の考える今川義元です。また側近である太原雪斎や朝比奈泰能が生きていれば、義元が討ち取られることは無かったという説もあります。2人の優秀な部下を失ってしまったことが義元にとって大きな痛手になっていたのかもしれません。

<戦国武将パラメータ>
統率75 武勇70 知略80 政治90 義理70 魅力70
特徴:与一の弓、公家かぶれ

この武将を評価する点
・領国経営がうまい・今川家の最盛期を築いた・教養が高い

2009年12月30日水曜日

北条氏康


 北条家3代目当主北条氏康は、相模(神奈川県)の戦国大名。その勇猛さから相模の虎と言われています。若い頃はうつけとよばれていたが、父氏綱の訓戒を守り質素に生きることを学びそれからめきめきと頭角を発揮するやり手となっていきます。戦術では奇襲作戦を得意とし、夜襲で上杉朝定を討ち取り、里見氏を打ち負かすなど数々の戦功を上げています。しかし、里見の精強な兵に苦しめられ重臣を失い、上杉憲政を潰走させたわいいが家臣の長野業正に苦戦するなど、若干正攻法が苦手だったようだけど・・・。

 政治方面でも優秀な手腕を発揮し、外政では甲相駿同盟を結び、内政では上水道や目安箱の設置、伝馬制の確立などオールマイティーな活躍をする氏康。その中でも内政は、特に優れていて関東の人々に「ゴミひとつ落ちていない」といわしめるほど行き届いた政治をしていたそうな。そういう事細かな政治をするもんだから、町ひとつを囲みこむ約9kmにも及ぶ城壁を築いたり(総構え)できるんでしょうね。ちなみにこの北条家の城壁は大阪城の城壁よりも長かったようです。


 彼の性格を表している言葉があります。「酒は朝に飲め」これは夜襲をするから酒は朝に飲んどけということなのかもしれませんね笑。

<戦国武将パラメータ>
統率90 武勇75 知略90 政治100 義理50 魅力90
特徴:総構え・神内政・夜襲


この武将を評価する点
・内政、外政ともにできる政治手腕・夜襲の鬼・内政が神掛り的

2009年12月27日日曜日

武田信玄


 甲斐の虎、常勝軍団など上杉謙信と並び称される武田信玄は甲斐(山梨県)の戦国大名です。上杉謙信と川中島の戦いで5度も激突する猛者である一方、城攻めにおいては謀略により敵を内部崩壊させる知略家でもありました。彼の主力である騎馬軍団は甲斐の山中では到底作れるものではないという話もあるのですがそれは嘘か誠か。

 後の将軍徳川家康をコテンパンにやっつけたため、徳川家康は武田信玄を非常に恐れたのと同時に、家康は信玄を尊敬しました。それにより、武田信玄は名君として今にまで語り継がれています。

 しかし、実際は実の父親を甲斐から追放したり、篭城する敵軍の士気を削ぐために首級をさらしたりと暴君じみた一面も同時に併せ持っているのですが。まあ、歴史は勝者によって塗り替えられるといいますからね。その後も村上攻めのときに大敗し、宿老の板垣信方と甘利虎泰を討ち取られるなど散々な負けっぷりでした。その大敗により、ようやく信玄は人を大事にすることを学び取り、晩年は天下統一を狙えるくらいにまで上りつめ、かの有名な「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」という言葉を残す名君になっていくのです。

 失敗を成功に導いた戦国大名。それが私の信玄に対する見解です。

<武将能力パラメータ>
統率95 武勇90 知略88 政治95 義理30 魅力85
特徴:風林火山、啄木鳥の戦法、信玄堤


この武将を評価する点
・武田24名臣など優秀な家臣団を持つ・失敗から学ぶ精神・卓越した政治手腕

2009年12月24日木曜日

上杉謙信


 越後の龍・聖将・軍神などさまざまな異名を持つ上杉謙信は私の一番好きな戦国武将でもあります。なんといっても強い、強すぎるというのが印象的です。上杉謙信は越後(新潟県)の春日山城を本拠地とする戦国大名です。武田、織田、北条の三大勢力にその所領が脅かされても敵軍を跳ねとばし続けるその強さは、負けしらずと言われています。判定負けみたいなものもありますが、大敗を喫したことはありません。また、上杉謙信は義理人情にも厚く敗走する関東管領の上杉憲政を匿い、彼に関東管領の職を引き渡されてから、北条による圧力に苦しむ関東の武将の助けに幾度も応じます。そのため自分の領地を増やすことができず、家臣の中には謀反を企てるものもいましたが、持ち前の武力であっという間に鎮圧してしまいます。その後その謀反を企てた武将は、すぐに謙信に許されて戦線に復帰しています。他にも数え切れないほどの武勇伝を残している人物ですが、とても書ききれるものではないので申し訳ないですが割愛します。
骨肉の争いがはびこる中で自分の欲ではなく、己の義のために戦う姿はまさに聖将と呼ぶにふさわしい人物だと思います。



独断と偏見で私なりに各武将ごとに評価をつけたいと思います。能力値は信長の野望を参考にしています。
<武将能力パラメータ>
統率120 武勇95 知略74 政治70 義理100 魅力100
特徴:軍神・神速・車懸り


この武将を私が評価する点
・神がかり的な武力・清廉潔白な精神・屈強な家臣団・上杉家臣団と越後の民をまとめあげた統率力