今回も引き続き弟子たちの紹介をしていきたいと思います。
冉有(ぜんゆう)
兵糧の準備や年貢の取り立てなどを行い前線の味方の後方支援が得意であるが、前線に出て戦うこともあり、陽虎討伐戦では、子路と共に副将として参戦し戦功をあげた。先に門弟になっていた子路のことを兄弟子と仰いだ。また、孔子の晩年に魯の国が呉と越の連合軍に攻められようとしたとき、700の兵を精鋭に育て上げ、国境付近で待機している敵軍2万を夜襲し追い払うことに成功している。
顔回(がんかい)
文才は孔子を凌ぐとまでいわれ、殷の時代の旧字体を読むことができる数少ない人物。名誉栄達を望むことなく、ひたすらに学問の道を追い求め続ける学者筋の性格。また、極めて質素な暮らしぶりをしていたとされ、無欲な人物であった。孔子は自分の後を継ぐのは顔回だと考えていたが、孔子よりも先に他界する。その死を孔子は嘆き悲しんだという。朱子学の四聖と言われている。
曾参(そうし)
孔子から尊敬の念から曾子と呼ばれることもあるほどに、学識、仁愛 に優れた人物。孔子から後継者として認められ、孔子の孫の子思(しし)の教育をしており、その子思から教えてもらっていたのが性善説を唱えた孟子である。朱子学の四聖と言われている。
2018年5月8日火曜日
孔子伝 外伝壱
孔丘が季孫斯の家庭教師となってから、孔丘は魯の長官となり、政治の舞台にでて活躍するのですが、孔丘の功績は必ずしも彼一人で出来るものではありませんでした。彼の回りにいた優秀な弟子たちが、支えてこその功績だったのです。今回はそんな優秀な弟子たちを紹介したいと思います。
子貢(しこう)
はじめ商人だったが、商売をしていても心が安らがないため、仁の道を志す孔丘の門弟になる。弟子入りしたのは遅めだったが、賢く、弁舌が得意なため、斉との交渉など外交ごとにはよく起用され、成果をだした。特筆すべき功績はある日、斉の商人が魯の国の米を買い占め、自分の国の米を高値で売ろうとしていたときに子貢は衛の武器と馬車を大量に仕入れる代わりに、必ず返すからと衛の米を大量に借りて、通常よりも高いが斉よりも安い値で魯の国で売り、斉の米を一切魯の国で売らせなかった。子貢はこのときに大量に儲けた。米を大量に持っており、大損をしそうだった斉の国は更に安い値で魯の国で米を売らざるを得ず、それを子貢が買い占めた。それによりはじめに儲けた金が余った。持っている米を衛に返し、余った金で約束通りに衛から武器と馬車を買ったという大胆かつ論理的な思考を持っているといえる。孔丘いわく、「利口この上なく、どんな国の宰相も勤められるが、宰相どまりである。賢すぎるため利を求めがちで大道を得ることは難しい」と評される。孔子亡き後はかの有名な孔子の言葉を編纂し『論語』をまとめ、孔子の教えを自身の弟子たちに説いている。
子路(しろ)
孔子に幼少期から弟子入りしており、孔子に最も信頼された人物。孔子が長官になってからは、一軍の大将を任せられ、数々の戦場を駆け回り戦功を立てた。中でも、陽虎討伐戦では素人同然の兵3千を短期間で精鋭に育て上げ、その兵を率いて陽虎の軍3万を打ち破る功をたてた。また、兵と心を交わすことが得意で、敵対していた少正卯の元自軍の兵を鶴の一声で自分のものにしてしまうほど。孔子いわく「質実剛健で、困難なことにも立ち向かう強さを持っているが、融通が効かず、まっすぐすぎる性格が災いするだろう」と評される。孔子の晩年の諸国放浪の旅について行き、衛国にとどまり兵の訓練や戦の指揮をとっていたが衛国の内乱に巻き込まれ、部外者であるが逃げることなく兵をまとめようとするも、反乱軍に重囲され、憤死する。多数の傷を負いながら孤軍奮闘する中、兜が自分の頭から落ちたのを見て「君子は冠を正しくするものだ」と言い、再び結び直してから絶命したという。
子貢(しこう)
はじめ商人だったが、商売をしていても心が安らがないため、仁の道を志す孔丘の門弟になる。弟子入りしたのは遅めだったが、賢く、弁舌が得意なため、斉との交渉など外交ごとにはよく起用され、成果をだした。特筆すべき功績はある日、斉の商人が魯の国の米を買い占め、自分の国の米を高値で売ろうとしていたときに子貢は衛の武器と馬車を大量に仕入れる代わりに、必ず返すからと衛の米を大量に借りて、通常よりも高いが斉よりも安い値で魯の国で売り、斉の米を一切魯の国で売らせなかった。子貢はこのときに大量に儲けた。米を大量に持っており、大損をしそうだった斉の国は更に安い値で魯の国で米を売らざるを得ず、それを子貢が買い占めた。それによりはじめに儲けた金が余った。持っている米を衛に返し、余った金で約束通りに衛から武器と馬車を買ったという大胆かつ論理的な思考を持っているといえる。孔丘いわく、「利口この上なく、どんな国の宰相も勤められるが、宰相どまりである。賢すぎるため利を求めがちで大道を得ることは難しい」と評される。孔子亡き後はかの有名な孔子の言葉を編纂し『論語』をまとめ、孔子の教えを自身の弟子たちに説いている。
子路(しろ)
孔子に幼少期から弟子入りしており、孔子に最も信頼された人物。孔子が長官になってからは、一軍の大将を任せられ、数々の戦場を駆け回り戦功を立てた。中でも、陽虎討伐戦では素人同然の兵3千を短期間で精鋭に育て上げ、その兵を率いて陽虎の軍3万を打ち破る功をたてた。また、兵と心を交わすことが得意で、敵対していた少正卯の元自軍の兵を鶴の一声で自分のものにしてしまうほど。孔子いわく「質実剛健で、困難なことにも立ち向かう強さを持っているが、融通が効かず、まっすぐすぎる性格が災いするだろう」と評される。孔子の晩年の諸国放浪の旅について行き、衛国にとどまり兵の訓練や戦の指揮をとっていたが衛国の内乱に巻き込まれ、部外者であるが逃げることなく兵をまとめようとするも、反乱軍に重囲され、憤死する。多数の傷を負いながら孤軍奮闘する中、兜が自分の頭から落ちたのを見て「君子は冠を正しくするものだ」と言い、再び結び直してから絶命したという。
2018年5月7日月曜日
孔子伝 後編
『孔子の若年期 30才まで』
婚姻してから、孔丘は自分の国に戻るよりも学校を立ててそこで、色々なことを自分も学びながら色々なことを教えていきたいと思うようになります。この頃から弟子をとるようになり、しばらく周の国に遊学に行きます。そこで、李耳(後の老子)という老人に会い、周の国に古くから伝わる書物(武王や文王の事など)を読まないかと提案されます。そこで、色々な書を弟子たちと飲食、睡眠を忘れるほど読み漁り続けます。また、博学の李耳と今の世の中に必要な事とは何か、孔丘がこれから何を目指していかなければ行けないのかというようなことを語り合います。そして、孔丘は大道(人として志すべき理想)を知ります。「孔子30にして立つ」です。
『孔子の壮年期 襄公追放まで』
久々に魯の国に帰ってくると国内は賭博(闘鶏)に力をいれれば経済がよくなるのではという、少正卯(しょうせいぼう)の提案により庶民から国王である襄公までもが賭博に夢中になるという異常事態を引き起こしていました。孔丘は襄公や三桓氏に賭博を今すぐにやめるように進言しますが聞き入れてもらえませんでした。益々賭博の熱は高まっていき、最後には襄公の全財産と三桓氏の全財産をかけた闘鶏が行われることになりました。お互いが負けられないため、いかさまをしようとたくらみますが、企みが公になってしまい、この闘鶏試合は無効になります。しかし、この闘鶏にかけていた庶民たちはお金が戻らないことに腹を立て一気に暴動の火種となって魯国中を混乱の渦に巻き込みます。そこで、三桓氏はすべての罪を襄公にかぶせ、この混乱をおさめようと画策します。襄公はこの策に成すすべなく、従いざるをえませんでした。古くからの家臣の中にも襄公についてくるものなど誰もいませんでしたが、孔丘と弟子たちは義に背くわけにはいかないと、襄公と共に斉の国に行きます。孔丘が36のときです。
『孔子の壮年期 季孫意如の死まで』
斉の国に渡ってからというもの、特に政にも参加することなく、歓待を受けるのですが、女と酒に浸り続ける体たらくな日々が続きます。孔丘もそんな日々に飲まれてしまいます。ある日、子産氏から法律が書かれた鼎(かなえ) が送られてきます。それは子産氏が死んだら孔丘に届けるようにと言ってあったもので、子産は孔丘に国内の治安を安定させるには法律は不可欠という助言をしており、孔丘も納得していたのですが、鼎はその事を思い起こさせるものだったのです。孔丘はその鼎を見て今の自分の姿を猛省し、再び国内に思いをよせるようになります。しかし、襄公が病になり、斉国にて看病してくれるのは昔からいる世話役と孔丘のみでした。そして、襄公は孔丘に「誠の忠臣はそなたのみだったな。」と言い残しこの世を去ります。その後、孔丘は襄公の亡骸を魯国に運び込みむために魯国に戻りますが、すでに新王が擁立されており三桓氏による更なる独裁と内政の混乱が甚だしい様相でした。三桓氏筆頭の季孫氏は重い病に患わされいました。季孫氏は襄公を追い出したことを後悔していました。襄公を、追い出したことにより更に混乱がひどくなったためです。孔丘は季孫氏の想いを知り、後に博学卓識の季孫氏でも邪念に勝てなかったのかと嘆いていたと言いいます。また、襄公の棺をもって帰ってきたときに三桓氏はなぜ今さら戻ってきたのだ、我々が悪いことをしたみたいではないかとしらをきるような発言をしているときに季孫氏だけは孔丘は誠の忠臣だ。葬儀は行わなければいかんといったと言います。また、孔丘を季孫氏の息子の季孫斯(きそんし)に人としての道を教えてやってくれといい、息を引き取ります。
婚姻してから、孔丘は自分の国に戻るよりも学校を立ててそこで、色々なことを自分も学びながら色々なことを教えていきたいと思うようになります。この頃から弟子をとるようになり、しばらく周の国に遊学に行きます。そこで、李耳(後の老子)という老人に会い、周の国に古くから伝わる書物(武王や文王の事など)を読まないかと提案されます。そこで、色々な書を弟子たちと飲食、睡眠を忘れるほど読み漁り続けます。また、博学の李耳と今の世の中に必要な事とは何か、孔丘がこれから何を目指していかなければ行けないのかというようなことを語り合います。そして、孔丘は大道(人として志すべき理想)を知ります。「孔子30にして立つ」です。
『孔子の壮年期 襄公追放まで』
久々に魯の国に帰ってくると国内は賭博(闘鶏)に力をいれれば経済がよくなるのではという、少正卯(しょうせいぼう)の提案により庶民から国王である襄公までもが賭博に夢中になるという異常事態を引き起こしていました。孔丘は襄公や三桓氏に賭博を今すぐにやめるように進言しますが聞き入れてもらえませんでした。益々賭博の熱は高まっていき、最後には襄公の全財産と三桓氏の全財産をかけた闘鶏が行われることになりました。お互いが負けられないため、いかさまをしようとたくらみますが、企みが公になってしまい、この闘鶏試合は無効になります。しかし、この闘鶏にかけていた庶民たちはお金が戻らないことに腹を立て一気に暴動の火種となって魯国中を混乱の渦に巻き込みます。そこで、三桓氏はすべての罪を襄公にかぶせ、この混乱をおさめようと画策します。襄公はこの策に成すすべなく、従いざるをえませんでした。古くからの家臣の中にも襄公についてくるものなど誰もいませんでしたが、孔丘と弟子たちは義に背くわけにはいかないと、襄公と共に斉の国に行きます。孔丘が36のときです。
『孔子の壮年期 季孫意如の死まで』
斉の国に渡ってからというもの、特に政にも参加することなく、歓待を受けるのですが、女と酒に浸り続ける体たらくな日々が続きます。孔丘もそんな日々に飲まれてしまいます。ある日、子産氏から法律が書かれた鼎(かなえ) が送られてきます。それは子産氏が死んだら孔丘に届けるようにと言ってあったもので、子産は孔丘に国内の治安を安定させるには法律は不可欠という助言をしており、孔丘も納得していたのですが、鼎はその事を思い起こさせるものだったのです。孔丘はその鼎を見て今の自分の姿を猛省し、再び国内に思いをよせるようになります。しかし、襄公が病になり、斉国にて看病してくれるのは昔からいる世話役と孔丘のみでした。そして、襄公は孔丘に「誠の忠臣はそなたのみだったな。」と言い残しこの世を去ります。その後、孔丘は襄公の亡骸を魯国に運び込みむために魯国に戻りますが、すでに新王が擁立されており三桓氏による更なる独裁と内政の混乱が甚だしい様相でした。三桓氏筆頭の季孫氏は重い病に患わされいました。季孫氏は襄公を追い出したことを後悔していました。襄公を、追い出したことにより更に混乱がひどくなったためです。孔丘は季孫氏の想いを知り、後に博学卓識の季孫氏でも邪念に勝てなかったのかと嘆いていたと言いいます。また、襄公の棺をもって帰ってきたときに三桓氏はなぜ今さら戻ってきたのだ、我々が悪いことをしたみたいではないかとしらをきるような発言をしているときに季孫氏だけは孔丘は誠の忠臣だ。葬儀は行わなければいかんといったと言います。また、孔丘を季孫氏の息子の季孫斯(きそんし)に人としての道を教えてやってくれといい、息を引き取ります。
2018年5月4日金曜日
孔子伝 中編
『孔子の青年期』
季札との旅に出た孔丘は道中に色々な事を語り合いながら、習います。周王朝の武王や文王の事、夏王朝の人々の暮らし、当時の乱世の無常な日々への憂いなど様々なことを教えてもらいます。孔子が後に語る「15にして学問を志す」とは季札との日々が強く影響していたのでしょう。そんなある日、酒浸りの生活が仇をなし、季札は重い病にかかってしまいます。そこで季札の友人でお見舞いに来た子産という当時鄭の摂政だった人物がやって来て、法律の作成を孔丘に手伝って欲しいことと、季札を呉の国に帰してやるべきだと助言します。法律の作成は断り、呉へ向かいますが、道中で季札は死んでしまいます。悲しみにくれる孔丘は季札を埋葬し、仕方なく魯国に戻ります。久しぶりに再会した母は老いており、息子孔丘は背も大きくなり立派な青年に成長していました。旅の話をしながら幸せなときを過ごしていたのですが、再会の喜びもつかの間でした。数ヵ月後、顔徴在は他界します。遺言として、孔丘に2つの願いを託して。一つは父親と同じところに埋めてほしいということ。二つ目は父親と宋国で敵軍ながらお互い認めあっていた幵官氏(けんかんし)の娘と婚姻してほしいということでした。孔丘17才のときです。
『孔子の若年期:婚姻まで』
孔丘は、母親の亡骸を棺にいれ、それを引っ張りながら父親の墓を目指しますが、墓の場所がわからず苦難します。「孔叔粱の息子、孔丘は母の顔徴在の亡骸を父の墓に埋めてやりたいが父の墓の場所がわからぬ、誰か知らないか?」という質問を何度も道行く人に言いますがみんな知らないと答えます。実は、孔叔粱は正妻を別にもっており、子供もいたのですがその正妻一家が圧力をかけて父の墓を決して教えはしまいと事実を隠していたのです。なので、顔徴在にも墓の場所は教えられていませんでした。それでも孔丘は母の遺言に従おうと懸命に声を張り上げながら探し続けます。そんな折、魯の王宮では孔丘の噂が広まっていました。こんな乱世に親孝行な奴だと孔丘を誉めた人物がいました。三桓氏筆頭の季孫意如(きそんいじょ)です。三桓氏とは魯の国の王族の家柄の者を指し、季孫家以外にも孟孫(もうそん)家、叔孫(しゅくそん)家があります。季孫意如は孔叔粱の墓の場所を孔丘に教え、また孔丘に官職を授け、倉庫を管理する委吏(いり)にします。その恩に報いるため、孔丘は持ち前の誠実さと学識で実務をこなしていくうちに借金の帳簿に誤りがありことを知ります。当時、魯の王様襄公は三桓氏に借金をしているため、三桓氏の顔色を伺わなければいけない立場にありました。しかし、帳簿の記録を元に遡っていくと、実際は三桓氏が襄公に借金をしていたのです。それを上司である季孫氏に報告したのですが、当然受け入れられる訳もなく、季孫氏は襄公に知られる前に記録のすべてを焼き払い、襄公に真実を伝えられることはありませんでした。季孫氏は孔丘に要職を任せると優秀であるがために、自分を脅かす存在になるのではないかと孔丘のことを恐れたため、乗田という羊飼いの職につかせることにしました。孔丘は真実を伝えられないことにもどかしさを感じながらも、羊飼いの職でも、真面目に取り組んでいきます。しかし、乗田の仕事をしていても頑固で誠実すぎる性格から周りの上役との折り合いがつかず衝動することが少なくありませんでした。そこで、孔丘は母親の二つ目の遺言を果たしたいので宋にいかしてほしいと願い出ます。孝行者の孔丘の更なる孝行の願いでもあるので、認めざるをえないことと、認めて上げれば自分の仁者としての名声も上がると判断した季孫氏は承諾します。
そして、宋に幵官氏の娘を訪ねにいった孔丘ですが、幵官氏は妾の子である孔丘の相手をしませんでした。幵官氏は代々弓の名手を産み出した家柄で、当時の宋国は馬車競技といって馬車に乗りながら弓で的を得て得点を競い、上位2名が決勝戦で一騎討ちを行い、相手を戦闘不能にしたものを優勝者として称えるという大会が催されていました。それに毎年出場し、優勝争いをしている幵官氏の目に留まるよう、孔丘自身も出場することを決意し、子産のつてで騎馬と弓の師匠に師事し腕を磨きました。みるみるうちに腕を上げ、大会に参加した孔丘は見事決勝まで残ると勝ち上がってきた幵官氏と決勝を戦うことになります。そこで、幵官氏は戦う前に王様にこう告げます。「孔叔粱の子、孔丘はわが娘と許嫁の約束を交わした大切な人です。この試合で万が一傷つけるわけにはいけないので私は棄権します。」幵官氏は孔丘の熱意を受け入れ遂に孔丘は幵官氏との結婚を許されたのでした。孔丘が19のときでした。
季札との旅に出た孔丘は道中に色々な事を語り合いながら、習います。周王朝の武王や文王の事、夏王朝の人々の暮らし、当時の乱世の無常な日々への憂いなど様々なことを教えてもらいます。孔子が後に語る「15にして学問を志す」とは季札との日々が強く影響していたのでしょう。そんなある日、酒浸りの生活が仇をなし、季札は重い病にかかってしまいます。そこで季札の友人でお見舞いに来た子産という当時鄭の摂政だった人物がやって来て、法律の作成を孔丘に手伝って欲しいことと、季札を呉の国に帰してやるべきだと助言します。法律の作成は断り、呉へ向かいますが、道中で季札は死んでしまいます。悲しみにくれる孔丘は季札を埋葬し、仕方なく魯国に戻ります。久しぶりに再会した母は老いており、息子孔丘は背も大きくなり立派な青年に成長していました。旅の話をしながら幸せなときを過ごしていたのですが、再会の喜びもつかの間でした。数ヵ月後、顔徴在は他界します。遺言として、孔丘に2つの願いを託して。一つは父親と同じところに埋めてほしいということ。二つ目は父親と宋国で敵軍ながらお互い認めあっていた幵官氏(けんかんし)の娘と婚姻してほしいということでした。孔丘17才のときです。
『孔子の若年期:婚姻まで』
孔丘は、母親の亡骸を棺にいれ、それを引っ張りながら父親の墓を目指しますが、墓の場所がわからず苦難します。「孔叔粱の息子、孔丘は母の顔徴在の亡骸を父の墓に埋めてやりたいが父の墓の場所がわからぬ、誰か知らないか?」という質問を何度も道行く人に言いますがみんな知らないと答えます。実は、孔叔粱は正妻を別にもっており、子供もいたのですがその正妻一家が圧力をかけて父の墓を決して教えはしまいと事実を隠していたのです。なので、顔徴在にも墓の場所は教えられていませんでした。それでも孔丘は母の遺言に従おうと懸命に声を張り上げながら探し続けます。そんな折、魯の王宮では孔丘の噂が広まっていました。こんな乱世に親孝行な奴だと孔丘を誉めた人物がいました。三桓氏筆頭の季孫意如(きそんいじょ)です。三桓氏とは魯の国の王族の家柄の者を指し、季孫家以外にも孟孫(もうそん)家、叔孫(しゅくそん)家があります。季孫意如は孔叔粱の墓の場所を孔丘に教え、また孔丘に官職を授け、倉庫を管理する委吏(いり)にします。その恩に報いるため、孔丘は持ち前の誠実さと学識で実務をこなしていくうちに借金の帳簿に誤りがありことを知ります。当時、魯の王様襄公は三桓氏に借金をしているため、三桓氏の顔色を伺わなければいけない立場にありました。しかし、帳簿の記録を元に遡っていくと、実際は三桓氏が襄公に借金をしていたのです。それを上司である季孫氏に報告したのですが、当然受け入れられる訳もなく、季孫氏は襄公に知られる前に記録のすべてを焼き払い、襄公に真実を伝えられることはありませんでした。季孫氏は孔丘に要職を任せると優秀であるがために、自分を脅かす存在になるのではないかと孔丘のことを恐れたため、乗田という羊飼いの職につかせることにしました。孔丘は真実を伝えられないことにもどかしさを感じながらも、羊飼いの職でも、真面目に取り組んでいきます。しかし、乗田の仕事をしていても頑固で誠実すぎる性格から周りの上役との折り合いがつかず衝動することが少なくありませんでした。そこで、孔丘は母親の二つ目の遺言を果たしたいので宋にいかしてほしいと願い出ます。孝行者の孔丘の更なる孝行の願いでもあるので、認めざるをえないことと、認めて上げれば自分の仁者としての名声も上がると判断した季孫氏は承諾します。
そして、宋に幵官氏の娘を訪ねにいった孔丘ですが、幵官氏は妾の子である孔丘の相手をしませんでした。幵官氏は代々弓の名手を産み出した家柄で、当時の宋国は馬車競技といって馬車に乗りながら弓で的を得て得点を競い、上位2名が決勝戦で一騎討ちを行い、相手を戦闘不能にしたものを優勝者として称えるという大会が催されていました。それに毎年出場し、優勝争いをしている幵官氏の目に留まるよう、孔丘自身も出場することを決意し、子産のつてで騎馬と弓の師匠に師事し腕を磨きました。みるみるうちに腕を上げ、大会に参加した孔丘は見事決勝まで残ると勝ち上がってきた幵官氏と決勝を戦うことになります。そこで、幵官氏は戦う前に王様にこう告げます。「孔叔粱の子、孔丘はわが娘と許嫁の約束を交わした大切な人です。この試合で万が一傷つけるわけにはいけないので私は棄権します。」幵官氏は孔丘の熱意を受け入れ遂に孔丘は幵官氏との結婚を許されたのでした。孔丘が19のときでした。
2018年5月3日木曜日
孔子伝 前編
今回は孔子について書きたいと思います。
孔子にどんなイメージがあるでしょうか?
恐らく、多くの方は晩年の諸国放浪の旅のイメージが強いでしょうが、それ以外にも魯国で大司冦に任ぜられ国の政をしている時期もありましたし、軍を率いて戦うこともありました。また、愚かにも貴族の立場にあぐらをかき、女と酒に溺れたこともありました。
そんな孔子がどのような人生を送ったか、書いていきたいと思います。まずは以下に孔子の生きる時代の地図を記します。
『孔子の出自』
時は紀元前6世紀の春秋戦国時代。魯の国に孔丘(後の孔子。以後孔丘と記す)の父となる孔叔粱(こうしゅくりょう)という将軍がいました。
彼は、大国の斉と楚が魯を分割統治する計略を熊伯が企てていることを知り、阻止することに成功するも部下をすべて失い、自身も傷を負ってしまいます。そこには、熊伯の奴隷として連れてこられていた、後の孔丘の母となる顔徴在(がんちょうざい)がいました。顔徴在は斉国の出身で家族全員を軍に殺され、仇討をしようとしたが失敗して捕縛され、処刑されるところを熊伯に奴隷として買われた身でした。彼女は傷ついた孔叔粱を手当てをし、道中山賊に襲われたり、極寒の中を女手ひとつで大の男を抱き抱えながら、必死の思いで歩き続け、なんとか魯の国に帰ることができました。
魯の国の尼丘山で孔叔粱と顔徴在は慎ましく暮らし、一人の子を授かります。それが孔丘(後の孔子)です。孔丘は孔叔粱の勇敢さと顔徴在の慈悲深さを受け継ぎ、大道を歩んでいくのです。
『孔子の少年期』
孔叔粱は孔丘が3つのときに亡くなります。孔叔粱の功績のお陰で顔徴在は平民の位を授かり女手ひとつで酒店を営みながら孔丘を育てていきますが、顔徴在は息子になんとか父親のような(孔叔粱は魯では先の功績で英雄と称えられていた)立派な人になってほしいという思いを募らせていました。そんな折、豪華絢爛な一台の馬車が顔徴在の店の前に止まります。酒を求めに来たその男の名は季札といい、彼は呉の国の王子でした。彼は、乱世や呉国の内乱に嫌気がさし放浪しているところでした。顔徴在は彼を歓待し、しばらく滞在してもらいながら孔丘の家庭教師として孔丘を教育してもらいました。しばらくして季札が魯の国を出ていくというときになり、顔徴在は季札の旅に孔丘を連れていってほしいと懇願し、何度も拒否されますが、顔徴在の熱意に押され、季札の諸国放浪の旅に孔丘はついていくことになります。
孔子にどんなイメージがあるでしょうか?
恐らく、多くの方は晩年の諸国放浪の旅のイメージが強いでしょうが、それ以外にも魯国で大司冦に任ぜられ国の政をしている時期もありましたし、軍を率いて戦うこともありました。また、愚かにも貴族の立場にあぐらをかき、女と酒に溺れたこともありました。
そんな孔子がどのような人生を送ったか、書いていきたいと思います。まずは以下に孔子の生きる時代の地図を記します。
『孔子の出自』
時は紀元前6世紀の春秋戦国時代。魯の国に孔丘(後の孔子。以後孔丘と記す)の父となる孔叔粱(こうしゅくりょう)という将軍がいました。
彼は、大国の斉と楚が魯を分割統治する計略を熊伯が企てていることを知り、阻止することに成功するも部下をすべて失い、自身も傷を負ってしまいます。そこには、熊伯の奴隷として連れてこられていた、後の孔丘の母となる顔徴在(がんちょうざい)がいました。顔徴在は斉国の出身で家族全員を軍に殺され、仇討をしようとしたが失敗して捕縛され、処刑されるところを熊伯に奴隷として買われた身でした。彼女は傷ついた孔叔粱を手当てをし、道中山賊に襲われたり、極寒の中を女手ひとつで大の男を抱き抱えながら、必死の思いで歩き続け、なんとか魯の国に帰ることができました。
魯の国の尼丘山で孔叔粱と顔徴在は慎ましく暮らし、一人の子を授かります。それが孔丘(後の孔子)です。孔丘は孔叔粱の勇敢さと顔徴在の慈悲深さを受け継ぎ、大道を歩んでいくのです。
『孔子の少年期』
孔叔粱は孔丘が3つのときに亡くなります。孔叔粱の功績のお陰で顔徴在は平民の位を授かり女手ひとつで酒店を営みながら孔丘を育てていきますが、顔徴在は息子になんとか父親のような(孔叔粱は魯では先の功績で英雄と称えられていた)立派な人になってほしいという思いを募らせていました。そんな折、豪華絢爛な一台の馬車が顔徴在の店の前に止まります。酒を求めに来たその男の名は季札といい、彼は呉の国の王子でした。彼は、乱世や呉国の内乱に嫌気がさし放浪しているところでした。顔徴在は彼を歓待し、しばらく滞在してもらいながら孔丘の家庭教師として孔丘を教育してもらいました。しばらくして季札が魯の国を出ていくというときになり、顔徴在は季札の旅に孔丘を連れていってほしいと懇願し、何度も拒否されますが、顔徴在の熱意に押され、季札の諸国放浪の旅に孔丘はついていくことになります。
2012年4月30日月曜日
2012/04/29 試合結果
晴天の野球日よりの今日は野球の試合がありました。チームは11-5で敗れました。自分の成績も2打数ノーヒットで四球一個といまいちでした。しかし、守備で一回ミスはしましたが、後はしっかり守れたのでよかったです。ポジションはサードです。
相手のピッチャーは軟投派のおっさん左ピッチャーでなかなかの曲者でした。というより自分のモチベーションが上がらない感じでした笑。こっちの先発はぼうやで、6回まで一失点の好投だったのですが次のピッチャーが炎上して試合が崩れてしまいました。最終回にこっちも反撃したのですが、力及ばず6点差で敗れました。
最終回にチャパタイくんに左ピッチャーの攻略法を少し教えたところ、すぐに結果を出したのにはびっくりでした。
相手のピッチャーは軟投派のおっさん左ピッチャーでなかなかの曲者でした。というより自分のモチベーションが上がらない感じでした笑。こっちの先発はぼうやで、6回まで一失点の好投だったのですが次のピッチャーが炎上して試合が崩れてしまいました。最終回にこっちも反撃したのですが、力及ばず6点差で敗れました。
最終回にチャパタイくんに左ピッチャーの攻略法を少し教えたところ、すぐに結果を出したのにはびっくりでした。
2012年4月24日火曜日
2012/04/24 おばさんの葬儀を終えて
今日、母方の兄の嫁さんに当たる人の葬儀に行ってきました。この方は、悪性の胃癌を発症してから子宮、全身の骨に癌が転移して発症から一年後にお亡くなりになりました。52才で亡くなったのですが、先月にこの方の父親が亡くなっており、自分の癌をおして、最後の力を振り絞って父親を送り出したのかと思うと嘆かわしい気持ちになります。さらに、子供が高1と中2の娘二人でまだ幼い上に家業が飲食店なので、これからすごく厳しい生活になると思われます。
従兄弟は、大阪にいる兄と自分と弟と中学生になる男の子しかいないので、経済力があり、尚且つ家の近い自分が支えになるべきだとは思いますが、9つ以上離れた異性ゆえにコミュニケーションがとりづらく、親戚とあまり関わりを持とうとしなかった自分ができることは少ないかもしれません。なにか協力できることがあれば、協力していきたいと思いました。
一方久々に家族一同そろうことができて、家本来の空気を味わうことができました。最近は家族一同そろうことが少なかったので、ひどく懐かしい気分に浸ることができました。
そして、母親も弟の心配なんてできなくなってしまいました苦笑
これはこれでまあいいのかもしれませんが・・・。
従兄弟は、大阪にいる兄と自分と弟と中学生になる男の子しかいないので、経済力があり、尚且つ家の近い自分が支えになるべきだとは思いますが、9つ以上離れた異性ゆえにコミュニケーションがとりづらく、親戚とあまり関わりを持とうとしなかった自分ができることは少ないかもしれません。なにか協力できることがあれば、協力していきたいと思いました。
一方久々に家族一同そろうことができて、家本来の空気を味わうことができました。最近は家族一同そろうことが少なかったので、ひどく懐かしい気分に浸ることができました。
そして、母親も弟の心配なんてできなくなってしまいました苦笑
これはこれでまあいいのかもしれませんが・・・。
登録:
投稿 (Atom)














