私は製造業をしている身で、職業病ともいうべき腰痛を患っています。一年位前に発症したのですが、病名は椎間板ヘルニアでスポーツなどは気をつけてやらないと再発の危険性が出てきてしまうものです。なので、野球も気をつけてやっていますが冬にいなると腰が痛くなってきてなかなか本領を発揮するのは難しい状況にあります。野球をストレス発散の場としてやっていいた身としては非常に痛い打撃です。何か新しいことを始めたほうがいいのか、腰を守るトレーニングをしっかりやって野球を続けるのか、今の肉体労働の職場を変えてもらって事務職になったほうがいいのかいろいろ考えましたが、すべてしっくりきません。何か新しいことを始めても、漠然としすぎていてどうしたらいかわからないし、トレーニングは時間がないし、仕事終わりは体力が残ってません。職場を変えるにしても、いすに長時間座っていても腰痛が発症するし、いい改善策が見つかりません。
唯一の救いは彼女の存在が自分を励ましてくれます。彼女と過ごす時間がなによりも幸せです。当然むかつくときやもありますが、その子がいっしょにいてくれるだけで心が和みます。今の職場の人たちにも少し慣れてきましたし、まだもう少しこの職場でがんばってみようと思います。
2012年1月5日木曜日
2011年4月30日土曜日
高橋紹運
高橋紹運は、九州で名高い武将です。その人間性と武勇、知略は当主やその主将を追い抜くほどです。主将の副官という立場でありながら、なぜ今日まで謳われる人物となったのか、今日は高橋紹運について書いてみようと思います。
高橋紹運は豊後(現在の大分県)大友家第20代当主・大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれます。大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、これに豊前(現在の福岡県東部)や筑前(現在の福岡県西部)、肥前(現在の佐賀県、長崎県のほとんど)の国人が連携して反乱を起こしました。このとき紹運は、父と兄とともにこの反乱を鎮圧しました。その後、豊後の次代大名の大友宗麟によって高橋氏の名跡を継ぐことを命じられ、姓を高橋と改め、名も同時に紹運と改め、岩屋城と宝満城を与えられました。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪の補佐役を務めながら筑前の支配に貢献しました。しかし、この頃から大友宗麟はキリスト教に傾倒しその名君ぶりは、影を潜め、内政をおろそかにするようになりました。そして、他国に侵略を許すようになっていくのです。
天正6年(1581年)耳川の戦いで勝ち続けていた大友氏が薩摩(鹿児島県)の大名、島津氏に大敗を喫し衰退し始めると、肥前の大名、龍造寺隆信と筑前の大名、秋月種実は大友氏への進行を開始します。このとき宗麟は日向(現在の宮崎県、鹿児島県の一部)と筑後(現在の福岡県南部)で戦っていたために、高橋紹運が居住する筑前に援軍を送れませんでした。紹運がこもる城は孤立無縁な状況に陥りました。そこにつけいった、筑紫氏と秋月氏両大名は、紹運のいる筑前に攻め込みます。しかし、紹運は数では圧倒的な不利な状況を持ち前の知略で、援軍が来たと偽報を流し敵の混乱を誘っては、退路に味方の旗を立てさせさらに混乱を誘うという戦術を屈指し、立花道雪と協力し持ち前の武力を持ってこれを見事に打ち破ります。
この頃から立花道雪と高橋紹運は、親交を深めていきます。互いに大友家に忠誠を誓う有能な武将だけに意気があったのでしょう。その様子はさながら実の親子のような関係であったと言われています(道雪は紹運の35歳年上)。そして、道雪は嫡男がいないことから、紹運の嫡男、統虎を婿養子として迎え入れたいと申し出ます。統虎は文武に秀で、高橋氏の跡取りとして申し分ない素質を持っていたために紹運は悩みますが、名家立花氏の存続のため、そして共に死線を潜り抜けて来た戦友のためにこの要求を呑みます。このとき息子との別れ際に「道雪殿を実の父のように慕うように」と言い、「もし、当家と立花家が対峙したときには迷い無く私にこの刀を抜け」と言って一振りの脇差備前長光を渡し、訓戒しました。
天正12年沖田畷の戦いで龍造寺氏が島津氏によって討ち死にすると、大友氏は筑後奪回に向け立花道雪と高橋紹運を筑後に送りました。しかし、天正13年に主将である道雪が病死すると、事態は急変します。もともと耳川の戦いで重臣のほとんどを失っていた大友氏は、完全に浮き足だし、さらに本隊とは離れた場所にいたために援軍の期待もできず、兵士のほとんどは戦わずに逃げていきました。そこへ再び筑紫氏が宝満城に攻め入ってきましたが、紹運は残ったわずかな手勢で獅子奮迅の采配を行い何とかこれを追い返します。しかし、残った紹運の手勢はわずか700余名。次の戦で勝てる見込みは限りなく低い状況となってしまいました。
そして天正14年島津氏は2万の大群を率いて大友氏を殲滅せんと、紹運の籠る岩屋城に攻め込んできました。紹運は主君大友氏を守るために、籠城し時間稼ぎをすることを決意します。戦が始まると、島津の大群を鉄砲、弓、石を猛烈に浴びせては、門を開けて打って出て、遊撃戦術を屈指し甚大な被害を与えました。戦の最中島津氏は降伏勧告を送るために、島津軍の一将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分 証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は敵味方見守る中櫓の上から、「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家 が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁 義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵方の島津軍からも感嘆の声が上がったといいます。しかし、籠城も半年が経過し水の手を切られ、兵糧も底を突き、紹運方の兵が傷の無いものはいないという状況になりました。紹運は豊臣軍が九州に迫り、大友の味方をしてくれるとことを聞き、十分に時間を稼いだと言う事実を聞かされます。そこで、紹運は玉砕を覚悟で最後の突撃を行います。紹運自身、大太刀を振り回し17人の島津兵を切りつけますが、ついに力尽き、紹運方は敵兵3000人を道ずれに全員討ち死。紹運も討ち取られました。(享年39歳)
目論見道理、島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまいます。全員玉砕しましたが、紹運の命を賭した徹底抗戦は大友氏存続を守ることに成功しました。
岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われました。攻め手の総大将島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったも のだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに…」と諸将とと もに涙を流し手を合わせたと伝わっています。大友家はその後も彼の働きにより存続し、大友家は江戸時代まで続くことになります。
最後まで紹運方の兵は逃げることなく戦い続け、戦場に散っていくわけですが、たった700人の兵で敵方の兵3000人を討ち取ると言うのはなかなかできることではありません。また、半年の間に一人も脱走者がでなかったのも主従関係に類稀な信頼関係があってなせることでしょう。
他にもこんな逸話があります。彼の正妻は病気で顔が醜くなってしまい、結婚を断ってきたのですが、彼は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま妻として迎え、その仲睦まじく、四子を儲け、家臣からも母のように慕われたといいます。
三国志の諸葛遼孔明の妻も醜い人だったのですが、彼もそのように内面の美しさをとったようですね。彼の人間性には敬服せざるを得ません。
<戦国武将パラメータ>
統率90 武勇92 知略90 政治60 義理100 魅力99
特徴:統率、武勇、知略共に優れている、敵からも賞賛される人間性、高い忠誠心
この武将を評価する点
・欠点が無い・男の中の男・悲運の名将
2011年2月21日月曜日
人に教えるとは
私は今、草野球チームに所属しています。高校野球経験者が少ないことから、私は副キャプテンを勤めています。キャプテンの顔色をうかがいつつ、他の選手とキャプテンとの橋渡し的な存在になれればと思っていますが、なかなかうまくいかないもので・・・。苦笑
さて本題に入りますが、野球の技術を他の選手に教えることは私としてははじめての経験で、いろいろと新しい感覚を発見することがあります。そんななかで、人に教えることとは自分としてはこういうことではないかと思ったことを今回の記事では書いていこうと思います。
私ははじめ、持ち前の声の大きさと野球経験からチームを声で鼓舞し、引っ張っていくことを考えていました。もちろん自分でファインプレーを演出することもしますが。練習中では、ゆるゆるだったチームの雰囲気を壊し、やる気を出させるため、わざと罵声を浴びせて悔しさを引き起こさせたりもしました。また、自分の論理力を屈指し、自分の技術をなるべく噛み砕きながら教えていきました。しかし、いくら丁寧に教えても、どんなに声を出しても上手くなろうとしてくれることはありませんでした。
そこで私は作戦を変えました。とにかく仲良くなろうと思い、みんなに積極的に野球以外の話で盛り上がるように心がけました。その結果、私に心を開いてくれる人が出てきて私の指導にも耳を傾けてくれるようになりました。そして、コミュニケーションがちゃんと取れる子に関しては上手くなっていくのがよくわかりました。
近頃、私は人に教えるのに一番大切なことは、どれだけ正確にアドバイスするか、またはやる気を出させるかとかではなく、自分のことを信用してもらうことなのではないかと悟りました。その後に、正確なアドバイス、やる気を出させるという順番がくるのではないかと考えるようになりました。
「コーチとは、人に教えるのではなく、人を導くものである」と言った立花龍司という日本で初めて野球のコンディショニングコーチになった人物がいます。私はこの言葉に深く感銘を受け、自分が他者に教えるときに忘れてはいけないものだと考えています。
この年で人に野球を指導できることに喜びを感じつつ、これからもコーチを続けていきたいと思いました。あれ?作文?笑
2010年11月23日火曜日
久々の更新 草野球チームのメンバー成績
久々の更新となってしまいました。理由はいろいろとありますが、仕事が忙しく、しかも肉体労働のために日々疲れてしまって・・・更新が遅れてしまいました。
久々の更新第一回目は、私の所属する草野球チームのメンバー成績です。今年の試合数は去年に比べてかなり少ないものになっていますが、それでも19試合やりました。
【チーム通算成績】19戦 10勝8敗1分
【打撃成績】
サカタ .382 水っち .368 坊や .304 ライト .250 マック .238 妖怪 .227 秀才 .226 キャプテン .217 名手 .211 運動神経 .176 おっさん .174 ぺっぺ .125 プロレス .074
(規定打席外) 先輩 .267 サッカー少年 .286 チャパタイ .250
【投手成績】
①サカタ 4勝2敗1S 防御率2.37 奪三振率5.42
②坊や 2勝2敗1S 防御率1.13 奪三振率6.38
③ライト 1勝2敗 防御率4.77 奪三振率4.77
④運動神経 1勝2敗 防御率3.94 奪三振率5.25
※草野球は7回制なので防御率と奪三振率は7回で計算。プロ野球などは一試合9回なので9回で計算。 例えば、サカタの場合、一試合(7回)で平均2.37点の自責点、5.42個の三振をとるということ。
チーム成績はこのようになりました。私自身は、4割いかなかったことと、弱冠防御率が高すぎる点に改善の余地が残されているなという感じがしました。他の選手では、水っちの打率の伸びと坊やの神がかり的な防御率が光っていますね(^^)b。
これからも、ちょいちょい試合の結果などを載せてきたいと思います。よろしくお願いします。m(__)m
久々の更新第一回目は、私の所属する草野球チームのメンバー成績です。今年の試合数は去年に比べてかなり少ないものになっていますが、それでも19試合やりました。
【チーム通算成績】19戦 10勝8敗1分
【打撃成績】
サカタ .382 水っち .368 坊や .304 ライト .250 マック .238 妖怪 .227 秀才 .226 キャプテン .217 名手 .211 運動神経 .176 おっさん .174 ぺっぺ .125 プロレス .074
(規定打席外) 先輩 .267 サッカー少年 .286 チャパタイ .250
【投手成績】
①サカタ 4勝2敗1S 防御率2.37 奪三振率5.42
②坊や 2勝2敗1S 防御率1.13 奪三振率6.38
③ライト 1勝2敗 防御率4.77 奪三振率4.77
④運動神経 1勝2敗 防御率3.94 奪三振率5.25
※草野球は7回制なので防御率と奪三振率は7回で計算。プロ野球などは一試合9回なので9回で計算。 例えば、サカタの場合、一試合(7回)で平均2.37点の自責点、5.42個の三振をとるということ。
チーム成績はこのようになりました。私自身は、4割いかなかったことと、弱冠防御率が高すぎる点に改善の余地が残されているなという感じがしました。他の選手では、水っちの打率の伸びと坊やの神がかり的な防御率が光っていますね(^^)b。
これからも、ちょいちょい試合の結果などを載せてきたいと思います。よろしくお願いします。m(__)m
2010年4月26日月曜日
2010/04/25 試合結果
7-4で勝ちました。しかし、個人成績は思わしくありませんでした。
投球回7 奪三振6 失点4 自責点3 四死球4 3打数無安打でした。
球は走っていたのですが、ストライクがあまり取れなくて総合的にはいまいちでした。打撃では、マイバットを忘れてしまったので、バットの感覚がつかめないまま終わった感じでした。内容はピッチャーゴロとライトフライ2つでした。
投球回7 奪三振6 失点4 自責点3 四死球4 3打数無安打でした。
球は走っていたのですが、ストライクがあまり取れなくて総合的にはいまいちでした。打撃では、マイバットを忘れてしまったので、バットの感覚がつかめないまま終わった感じでした。内容はピッチャーゴロとライトフライ2つでした。
2010年3月29日月曜日
神戸、大阪旅行
24,25,26日に神戸、大阪旅行をしました。メンバーは草野球のメンバーでいきました。大阪ではたこ焼き、神戸では神戸牛を食し、城では彦根城、姫路城を見てきました。そして、メインイベントの春の選抜甲子園では、第5日目の日程を見てきました。
姫路城
姫路城は改装工事がまもなく始まると言うこともあって、雨にもかかわらずかなりの人が集まっていました。天守閣に入るには2時間30分もかかるというディズニーランドのアトラクション並みの待ち時間があることもあって、入りませんでしたが、外観だけでも十分に姫路城の美しさを堪能できました。
彦根城
彦根城の方は人はほとんどいなくて、すいすい進むことができました。代々井伊家が支え続けた彦根城は、琵琶湖のすぐ近くに位置していました。城の中には、幕末の大老井伊直弼の像や佐和山城と彦根城の関係などがこと細かく書かれていました。また、鉄砲銃眼もありました。お次はメインイベント春の選抜甲子園です。
甲子園球場
阪神甲子園球場は改装されて、木の蔓が生えている感じではなくなっていました。トイレもかなりきれいで、売店も沢山あり(ケンタッキーもある)かなりよくなっている感じでした。また、観客席はかなり近くなっていて、特にバックネット裏は自分もグランドに立っているかのような臨場感を味わえます。
第一試合 興南 対 関西
興南の島袋投手のピッチングが光っていました。また、興南の外野陣の強肩には驚きましたね。ボールがフェンス際から、黒土の部分までまっすぐ行ってましたからね・・・・。
第2試合 帝京 対 神戸国際大付属
帝京の伊藤と神戸国際大の岡本の投げ合いという感じの試合でした。前半は岡本の好投が光りましたが、後半の伊藤のストレートはかなり威力がありました。ガンでも148km/hをたたき出していました。
第3試合 今治西 対 三重
三重高校のキャッチャー加藤の強肩と、三重高校の選手の足の速さにびっくりさせられました。三重高校のキャッチャー加藤はピッチャーの頭のところに通った球が2塁手の胸元にまで伸びるようなボールを投げていました。あの肩はやばい・・・。また、内野ゴロがあと少しで内安打になるような俊足も三重高校の選手は持っていました。
こんな感じで二泊三日の旅行をしてきました。平等院鳳凰堂も行ってきましたが、なんか風化していてきらびやかな感じではありませんでしたね・・・。なによりも甲子園が印象に残りましたね。上には上がいるものですねぇ。これからの野球の技術向上に役立てていきたいです。
2010/03/28 試合結果
昨日ランキング戦がありました。結果は8-0で快勝しました。18位のチームに勝ったので、112位だった家のチームは大きく順位を上げることになるでしょう。
打撃成績は4打数 2安打 2打点 2盗塁でした。内容はライトへの犠牲フライ、レフトエラー、左安打、右安打でした。怪我をしているので、インコースを打つと左手がものすごく痛くなります。よって、インコースは低目だけしか打てません。ライトへは普通に打てますが・・・。この状態でも成績を残せているので、いいのですが早く治ってほしいものですね。
投手成績は、投球回数7 被安打4 四死球3 奪三振2 自責点0でした。この日はめちゃくちゃ球が走っていて、相手の打者はほとんど詰まっていました。投げていて気持ちよかったです。
来週からキャプテンがいなくなるので、少し練習とか大変になりそうですがなんとかはりきっていきたいと思います。
打撃成績は4打数 2安打 2打点 2盗塁でした。内容はライトへの犠牲フライ、レフトエラー、左安打、右安打でした。怪我をしているので、インコースを打つと左手がものすごく痛くなります。よって、インコースは低目だけしか打てません。ライトへは普通に打てますが・・・。この状態でも成績を残せているので、いいのですが早く治ってほしいものですね。
投手成績は、投球回数7 被安打4 四死球3 奪三振2 自責点0でした。この日はめちゃくちゃ球が走っていて、相手の打者はほとんど詰まっていました。投げていて気持ちよかったです。
来週からキャプテンがいなくなるので、少し練習とか大変になりそうですがなんとかはりきっていきたいと思います。
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