今回はサピエンス全史の下巻を読んだ感想を記述していきます。
『科学革命』
近代の文化はまだ知られていない重要な事柄が多数あることを認め、そのような無知の自認が科学の発見は私たちに新しい力を、与えうるという考え方と結び付いたとき、真の進化は可能なのではないかと人々は思い始めた。
科学者は帝国主義の事業に実用的な知識やイデオロギー面での正当性、テクノロジー上の道具を与えてきた。こういった貢献がなければ、ヨーロッパ人が世界を征服できたかどうかははなはだ疑問だ。征服者は情報と保護を与え、あらゆる奇妙なプロジェクトや、魅力的なプロジェクトを支援し、地球の隅々まで科学的な考え方を広めて科学者に報いた。
帝国を建設するにも科学を推進するにも絶対必要なものがお金だ。経済が近代史において果たした真の役割を把握するのは容易ではない。お金によって数々の国家が建設され、滅ぼされた。新たな地平が開け、無数の人々が奴隷と化した。歴史の大半を通して、経済の規模はほぼ同じままだった。確かに世界全体の生産量は増えたものの、大部分はが人口の増加と新たな土地の開拓によるもので、一人当りの生産量はほとんど変化しなかった。ところが近代にはいると状況は一変する。西暦 1500年の世界全体の財とサービスの総生産量は、およそ2500億ドル相当だったが、今では60兆ドル当たりで推移している。さらに1500年には一人当りの年間生産量が、550ドルだったが、今日では老若男女を、すべて含めて平均8800ドルに上る。
じつは産業革命は、エネルギー変換における革命だった。この革命は、私たちが使えるエネルギーに限界がないことを、再三立証してきた。あるいは、もっと正確にいうならば、唯一の限界は私たちの無知によって定められることを、立証してきた。私たちは数十年ごとに新しいエネルギー源を発見するので、私たちが使えるエネルギー総量は増える一方なのだ。
ほとんどの人が自分がいかに平和な時代に生きているかを、実感していない。2002年5700 万の死亡者のうち戦争での死亡者17万人。暴力犯罪の死亡者56万人でこれに対して自殺者は87万人。9.11テロのあった翌年のテロリズムが盛んにあった頃でもこの数値である。権力が分散されていた中世ヨーロッパでは人口10万人当り毎年20~40人が殺害されていた。現代の中央集権化されたヨーロッパでは、人口10万人に辺り1人だ。王国や帝国が力を増すにつれて暴力の水準は低下した。
今、科学は脳をコンピューターと繋ごうとしたり、コンピューターの内部に心を生み出そうとしたりしている。完全な非有機的な存在を作り出そうとしている。なぜそんなことをするのかと科学者に聞いてみるといい。すると科学者は十中八九人命を救うためだというだろう。それに異論を挟める人はいない。その社会が実現したとき、未来を想像することを苦手とする人類はうまく立ち回れるだろうか。唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は私たちは何になりたいかではなく私たちは何を望みたいかかもしれない。
2018年10月7日日曜日
2018年8月25日土曜日
サピエンス全史を読んで 前編
先日、サピエンス全史を読んだのですが、非常におもしろい本だったので、自分の考えを投稿しようと考えました。
「人類は特別な種ではない」
現世人類ホモサピエンスは、食物連鎖の最上段にいる特別な種だという考え方が、一般的に語られているが、現世人類はヒト科であり、生物学的にはチンパンジーやゴリラははもっとも近い縁者であり、3万年前まで地球上に存在したネアンデルタール人や人類で最長の200万年も種を存続させたホモエレクトスと同じ属の生物である。ホモサピエンスはこの後1000年も生きるかわからない。
「認知革命」
ホモサピエンスは生物学上は他の動物と変わることのない、とるに足らない存在であるのだが、認知革命が他の種とは違う存在にさせた。それは、集団で共通の妄想を信じることができたこと。複雑な言語で大量の情報を伝える能力と、部族の聖霊など現実には存在しないものを伝え信じることで、圧倒的大多数の人達を共通の目的に向けてコントロールできたことだ。チンパンジーはヒトよりも強い握力があり、直接戦った場合チンパンジーの方が強い。しかし、チンパンジーは50頭までしかアルファオスの顔が利かないため、徒党が組めない。それ以上になると仲間割れが起こり、違う群れが出来たりする。また、チンパンジーは違う群れ通しで食べ物やメスの取り合い等で殺しあうこともある。それに対してホモサピエンスは1000人でも2000人でも、混乱することなく徒党を組める。認知革命が人類を革新させた。
「農業革命の誤算」
一万年ほど前にすべてが一変した。サピエンスが、毎日小麦の世話に没頭し始めた。より多くの作物や穀物、肉が手入るだろうと考えてのことだ。しかし、実際はそうはうまくいかなかった。サピエンスの体は石を取り除いたり、水桶で水を運んだり、雑草を抜いたりすることに向いておらず、古代の骨格を調べると椎間板ヘルニアや関節炎といった実に多くの疾患がもたらされたことがわかる。サピエンスの体はりんごの木に登ったり、ガゼルを追いかけたりするように適応していた。また、小麦は経済的安心を与えてくれることはなかった。雨が十分に降らなかったり、イナゴの大群が来襲したりしたら、必要なカロリーを摂取できずに何千から何百万という単位で命を落とした。彼らはそれでも一生懸命働いた。一生懸命働けば前よりいい暮らしができると信じていた。しかし、彼らは子供の数が増えることを予想できなかったし、自分達の畑を荒らされないように見張りをたてなくてはいけないことも予想できなかった。
もうひとつ農耕を推し進めた理由もある。ギョベクリ・テペの構造物は紀元前9500年頃まで遡るが、そのわずか30キロのところに栽培化された小麦の起源をたどることができる。神殿が建設されてから、村落がその回りに形成され、農耕をして生活する必要があった。
「神話による社会の拡大」
一世紀になると、狩猟採集民は100万から200万しか残っておらず、それを遥かに上回る2億5000万もの農耕民が世界各地で暮らしていた。紀元前1776年のバビロンは世界最大の都市だった。バビロンの王ハンムラビの名を冠したハンムラビ法典はバビロニア帝国全土における画一的な法制度の基盤を担い、公正な王とはどう振る舞うのかを教えることを目的とした。現在においては、民主主義とロマン主義と消費主義がそれに変わる。そのような共同主観主義というべくものが、人類の増加と繁栄に貢献した。また、共同主観的な思考から脱するには、それよりさらに大きな共同主観的思考が必要とされ、逃れることは困難である。
「最強の征服者、貨幣」
狩猟採集民は物々交換を行っていたが、それも限界があった。そこで貨幣が産み出されたのだが、しかし、貨幣の最初の形態が産み出されたとき、人々はこの種の信頼を持っていなかったので本質的な本当の価値を持っているものを貨幣とせざるをなかった。歴史上知られている貨幣としてはシュメール人の大麦貨幣だ。これはただの大麦に過ぎないので、日用品ではなく貨幣として使うように人を説得するのは楽ではない。人は大麦を食べることができるが、保存も運搬も難しいからだ。そのうち、持ち運びに便利ということで、銀の貨幣ができ、現在のような紙幣も出来上がった。
「人類は特別な種ではない」
現世人類ホモサピエンスは、食物連鎖の最上段にいる特別な種だという考え方が、一般的に語られているが、現世人類はヒト科であり、生物学的にはチンパンジーやゴリラははもっとも近い縁者であり、3万年前まで地球上に存在したネアンデルタール人や人類で最長の200万年も種を存続させたホモエレクトスと同じ属の生物である。ホモサピエンスはこの後1000年も生きるかわからない。
「認知革命」
ホモサピエンスは生物学上は他の動物と変わることのない、とるに足らない存在であるのだが、認知革命が他の種とは違う存在にさせた。それは、集団で共通の妄想を信じることができたこと。複雑な言語で大量の情報を伝える能力と、部族の聖霊など現実には存在しないものを伝え信じることで、圧倒的大多数の人達を共通の目的に向けてコントロールできたことだ。チンパンジーはヒトよりも強い握力があり、直接戦った場合チンパンジーの方が強い。しかし、チンパンジーは50頭までしかアルファオスの顔が利かないため、徒党が組めない。それ以上になると仲間割れが起こり、違う群れが出来たりする。また、チンパンジーは違う群れ通しで食べ物やメスの取り合い等で殺しあうこともある。それに対してホモサピエンスは1000人でも2000人でも、混乱することなく徒党を組める。認知革命が人類を革新させた。
「農業革命の誤算」
一万年ほど前にすべてが一変した。サピエンスが、毎日小麦の世話に没頭し始めた。より多くの作物や穀物、肉が手入るだろうと考えてのことだ。しかし、実際はそうはうまくいかなかった。サピエンスの体は石を取り除いたり、水桶で水を運んだり、雑草を抜いたりすることに向いておらず、古代の骨格を調べると椎間板ヘルニアや関節炎といった実に多くの疾患がもたらされたことがわかる。サピエンスの体はりんごの木に登ったり、ガゼルを追いかけたりするように適応していた。また、小麦は経済的安心を与えてくれることはなかった。雨が十分に降らなかったり、イナゴの大群が来襲したりしたら、必要なカロリーを摂取できずに何千から何百万という単位で命を落とした。彼らはそれでも一生懸命働いた。一生懸命働けば前よりいい暮らしができると信じていた。しかし、彼らは子供の数が増えることを予想できなかったし、自分達の畑を荒らされないように見張りをたてなくてはいけないことも予想できなかった。
もうひとつ農耕を推し進めた理由もある。ギョベクリ・テペの構造物は紀元前9500年頃まで遡るが、そのわずか30キロのところに栽培化された小麦の起源をたどることができる。神殿が建設されてから、村落がその回りに形成され、農耕をして生活する必要があった。
「神話による社会の拡大」
一世紀になると、狩猟採集民は100万から200万しか残っておらず、それを遥かに上回る2億5000万もの農耕民が世界各地で暮らしていた。紀元前1776年のバビロンは世界最大の都市だった。バビロンの王ハンムラビの名を冠したハンムラビ法典はバビロニア帝国全土における画一的な法制度の基盤を担い、公正な王とはどう振る舞うのかを教えることを目的とした。現在においては、民主主義とロマン主義と消費主義がそれに変わる。そのような共同主観主義というべくものが、人類の増加と繁栄に貢献した。また、共同主観的な思考から脱するには、それよりさらに大きな共同主観的思考が必要とされ、逃れることは困難である。
「最強の征服者、貨幣」
狩猟採集民は物々交換を行っていたが、それも限界があった。そこで貨幣が産み出されたのだが、しかし、貨幣の最初の形態が産み出されたとき、人々はこの種の信頼を持っていなかったので本質的な本当の価値を持っているものを貨幣とせざるをなかった。歴史上知られている貨幣としてはシュメール人の大麦貨幣だ。これはただの大麦に過ぎないので、日用品ではなく貨幣として使うように人を説得するのは楽ではない。人は大麦を食べることができるが、保存も運搬も難しいからだ。そのうち、持ち運びに便利ということで、銀の貨幣ができ、現在のような紙幣も出来上がった。
2018年6月9日土曜日
斎藤道三 再考
前回でも斎藤道三の記事を書いているのですが、自分の地元から近いこともあり、再び深く考えてみることにしました。そこで前回は非家庭人であると評していたり、一介の油商人と評していたり色々と認識が甘かったのではないかと思い、再び記事にしてみました。
『一介』の油商人ではない
前回は一介の油商人と言っていたのですが、その実、京都にある奈良屋という京都有数の商家に婿入りしていました。そこで稼いだ莫大な資金は、後年美濃を自分の手中に納める際の軍資金にしていました。因みに婿入りする前は寺で坊主をしており、そこでの学問と剣術の成績は群を抜いていたと言われています。
非家庭人ではない
前回は息子に裏切られて、家臣達から謀反を起こされて命を落とすのですが、息子である義龍含め家族をとても愛したそうです。特に京都にある油屋と美濃での侍としての二重生活をしていたのですが、両方に奥さんを持っていたのにも関わらず、円満な家庭環境を作っていたそうです。最終的には、家臣達の讒言にそそのかされた義龍に殺されますが。そう言ったことは戦国の世では珍しくないことであったようですし、何よりも道三自身がやってきたことであったので因果応報と言えるでしょう。
『楽市楽座』を他者に先駆けて先行して実施
よく信長が実施したように考えられているのですが、先に考案したのは道三のようで、油屋時代の腕をならしていた頃にこうなればやり易いと思ったことを自分の居城である岐阜城(当時は稲葉山城という)の城下で行ったそうで、各地の商人がこぞって岐阜(当時は美濃という)で商売をしたいと思いやって来て賑わっていたそうです。
以上のように道三は野心家ではあったのですが、家庭人であり、先見性のある革命児であったのだと思います。また、自分一人で成り上がった非常に能力の高い人物だったのでしょう。そして、道三の野望は彼の義理の息子信長に引き継がれていくことになるのです。
余談ですが、道三の甥に当たるのが明智光秀だそうで、信長も光秀も道三との関係は深かったのだといえます。そのことで、司馬遼太郎なんかは道三の坊主時代から培った『古き教養』の部分を受け継いだのが明智光秀であり、同じく道三の『時代の先をいく先見性』を受け継いだのが信長であったと言っているのですが、うまく言ったものだと思います。その二人が本能寺の変を引き起こすのですが、それも道三の生き様から習っていたのかもしれません。
2018年5月20日日曜日
孔子伝 最終章 後編
『老年期 諸国放浪』
孔丘は魯の国に愛想をつかし、弟子と共に旅に出ますが、まずは衛の国に行きます。衛の国の王様は年を取りすぎており、婦人の南子が取り仕切っていました。その南子婦人が孔丘に会いたいと言って、好色な南子婦人が師を誘惑しようとしていると弟子たちは警戒しますが、孔丘はそれに応じ、琴と舞を楽しみながら交流をします。しかし、これが衛国内で様々な臆測をうむこととなり、孔丘は衛国を出ることにします。
次に晋国に向かうのですが、そこで、公叔戍(こうしゅくじゅ)という衛の将軍が衛国に反発していたため、孔丘一行を衛国の手先だと勘違いして先に様子を見に来ていた子貢と冉有を捕らえます。孔丘が2人の救済のため、話し合いをしようとしますが、公叔戍は「俺を説き伏せれたら、仲間を離してやる」と意気込みますが、孔丘にあっけなく説き伏せられ、最後には先生と崇めるまでになり、道をあけました。そこで、衛国の使者がまたやって来て公叔戍無礼を詫びると共にまた、衛国に戻ってきてくれと言われ、戻ることにします。
戻るやいなや、南子婦人が殺されると血相を変えてやって来て、衛の皇太子が南子婦人の横暴に耐えきれないからと殺そうとしていました。孔丘の弟子たちが守ることはないと主張するのですが、孔丘は助けを求める女性をたすけられずに大道を得ることはできないとして、助けようとします。ところが、屋敷を太子の兵で囲まれてしまいます。しかし、南子婦人の腹心の弥子瑕(びしか)が兵を率いて、太子の兵を蹴散らし、この混乱は沈静化されます。南子婦人は孔丘の恩は決して忘れないと誓い、孔丘達一行は、再び衛国を発ちます。
宋国に入った孔丘達一行は、民の屍が足の踏み場もないほど放置されている光景を目にします。それは宋の司馬である桓魋(かんたい)が、自分の石棺を民に作らせ、かなりの重労働を課しており、毎日多数の過労死者を出していたために起きていた惨劇でした。孔丘が来ると解っていた桓魋は雪の降るほど寒い日なので、町の中に入り暖をとらせつつ、孔子に教えを請おうとしたのですが、孔丘はこんな悪逆非道な行いをする人に話す舌はないと拒否します。その仕返しに荷物の一部を燃やされたり嫌がらせをされますが、孔丘は極寒の中でも町に入らずそのまま宋の国から立ち去ります。
次に孔丘達は陳の国に入ります。そこで湣公(びんこう)に会うのですが、孔丘達一行を歓待し、孔丘に教えを請います。この頃になると、孔丘達一行は各国で人格者として有名になっており、各国の諸侯は皆、孔丘に一度は教えを請いたいと思っていました。湣公は孔丘に諸侯たるものどういう行いをするべきかと問います。孔丘は、自分の町を隣町の民が来たくなるような町にすることだと答えました。そのためには民のための政治を行い、腐敗した政治をしてはいけないと助言しました。湣公は教えに感謝し、孔丘たちを見送りました。
陳を後にした孔丘達一行は、楚の昭王が仁君であると聞き、是非一度会ってみたいと楚の国に向かいます。道中で楚の将軍に会い、昭王の元に知らせ、迎えを呼んでくる為に楚の国に急ぎ戻ります。しばらく進むと孔丘達の前に蔡国の兵の無数の屍が道を塞いでいました。どうやら、呉の国の敗残兵の仕業らしく、孔丘達は必死にすべての兵を埋葬していきましたが、7日の間飲まず食わずで作業したため、栄養不足で倒れるものが後をたちませんでした。子貢は後にこの時は本当に死を覚悟し、7日目は仲間と手を繋ぎ、死を待ったと語っています。7日目にようやく楚の兵が迎えに来たことで、全員無事に楚の国に入ることができました。楚の国では、昭王は孔丘を破格の待遇で迎えようとしましたが、家臣の子西が少正卯の手紙の内容を誇張して昭王に話したため、昭王は孔丘を召し抱える事をあきらめ、客人としてもてなすにとどまりました。
そんなある日、孔丘の元に魯から遠路はるばるやって来た一団がいました。その中には、孔丘の孫に当たる孔伋(こうきゅう)後の子思がやって来て、久々の魯の故郷話で盛り上がりました。しかし、そこで孔丘の最愛の人である幵官氏が亡くなった事を知り、故郷に帰る決心をします。孔丘含め、弟子達は魯への帰郷を大変喜びました。実に13年間も旅をしており、孔丘はこのとき69歳になっていました。
孔丘は今まで自分が見て感じてきたとこを踏まえた歴史書「春秋」を執筆します。春秋には最後に麒麟が出てきますが、太平の世に出てくるはずの麒麟が乱世に出てきてしまったために、民達に獣扱いされころされてしまうという締め括り方をしています。この麒麟は孔子自身の、境遇を照らし合わせているのかもしれません。弟子の子路と顔回、そして息子の孔鯉が、亡くなるのを見届けてから、孔丘は74歳でその波乱の人生の幕を閉じます。
2018年5月13日日曜日
孔子伝 最終章 中編
『壮年期 大司寇まで』
陽虎を討伐した孔丘はその功績で大司空に任ぜられ、益々王宮での発言力が増します。そんな折、少正卯も大司馬と呼ばれる軍事の最高職につき、同じく発言力を増していました。
ある日、斉の国では王妃が亡くなり、国中が悲しみに包まれていました。特に斉の景公は、深い悲しみの中にあり、王妃が腐敗しても埋葬する気配もなく寝床に置き共に眠る日々を過ごしていました。斉の宰相である晏嬰(あんえい)は、王のそんな様子を咎めますが言うことを聞いてもらえず、王妃を生き返らせる祈祷師を呼んで来るから、少し外に出ていてほしいと嘘をつきその内に王妃の亡骸を運びだしました。しかし、その嘘が露呈し、景公の怒りをかって景公は独裁的な、判断を下すようになります。
斉は国力で魯国を圧倒していましたが、周辺諸国の影響で攻める事ができない状況でした。それにも関わらず、景公は魯国を陥れるために無理な要求をする会盟を開くことにします。晏嬰は諌めますが、聞いてもらえず会盟は始まってしまいます。会盟は斉国内の峡谷で行われ、すぐには脱出不可能な地であり、孔丘は嫌な予感がしていました。景公はまず要求として、魯国と斉国の国境沿いの4国をこちらに譲ってもらえば同盟を結ぶという大胆な提案をします。しかし、そんな要求は飲めるはずがなく、魯国側は断りますが、更に景公は断れば斉国が侵略するという脅しをかけます。話し合いは進むはずはなく、主催の斉国は休憩のためと躍りを披露させますが、女性のなかに女装をした男性を見つけた孔丘は、その男をめしとり、背中に忍ばせた細身の剣を取り上げ、「これはなんだ!」と斉国側を、糾弾し斉国側はシラを切り通そうとしたのですが、孔丘は無礼者の始末は礼にならい、そちらの方でするべきだと凄み、斉国は仕方なく処罰をさせます。更に、孔丘は周辺に忍ばせていた自軍の伏兵2千で辺りを囲みます。驚く斉国側に対して、孔丘が言います。「それでは、魯国側の要求を言います。50年前に斉国により奪われた2つの町を返してほしい」と。先程の刺客による魯王(定公)と孔丘の暗殺失敗により立場を失ったばかりか、回りを魯の兵に囲まれた斉国側は提案を呑むしかなく、魯国側の外交的な勝利でこの会盟は終わります。国内へ帰った魯国側の一行は、孔丘の見事な対応を褒め称え、国の最高裁判官である大司寇に任じます。
『壮年期 魯国出奔まで』
ある日、子路と冉有と子貢は兵の訓練後に、自分の資金で酒を買い兵をもてなしました。それを聞いた孔丘は、兵の私物化が魯の国力の衰退をまねいたからと、その三人を厳しく咎め、精強に育て上げた兵達を大司馬の少正卯に引き渡すように言います。子路たちは反対しましたが、孔丘の意思は固く、兵権は少正卯のものになりました。
兵を返すやいなや、少正卯は淑孫氏と孟孫氏と共謀し魯国の都である曲阜(きょくふ)に攻めこみ、定公と孔丘を亡きものにしようと画策します。季孫斯と孔丘はこれに対抗し曲阜を守るのですが、少正卯の軍は5000に対し、孔丘は近衛兵のみの僅か100程の兵しかなく、戦況は圧倒的に不利でした。また、少正卯は100程の兵を曲阜に忍ばせてあり、開戦間もなく、門は破られ定公と孔丘と季孫斯は季孫家の屋敷のなかに逃げます。多くの敵兵に囲まれ、万事休すのところを、遠方地に派遣されていたかつての精鋭を呼び戻し、帰還した子路の戦車部隊が到着し、包囲を解きます。それを見た淑孫氏と孟孫氏は逃げようとしますが、少正卯はまだ戦車部隊が数百来ただけだから勝算はあると解きますが、理解されず一人曲阜に取り残されたところを捕らわれます。そして、謀反を煽ったとされ罪を一身でかぶり処刑されます。季孫斯宛の一冊の竹簡を遺して。
少正卯がいなくなり、孔丘の唯一の憂いは定公よりも三桓氏の権力が圧倒的に勝っているという事でした。そこで、三桓氏の私兵を魯の軍として参入させることと、三桓氏の領地の城壁を下げる事で権力を定公の元に集約しようと画策します。これには淑孫氏と孟孫氏が猛反発しますが、孔丘は毅然としてこの態度を崩さず、弟子たちもまだ時期尚早だからやめた方がいいと止めますが、孔丘は聞き入れませんでした。間に入っていた季孫斯でしたが、淑孫氏と孟孫氏の讒言に逆らえず、また、少正卯の竹簡にかかれたことが頭から離れませんでした。それは、孔丘は魯の国を自分のものにしようとし、三桓氏を必ず追い出すようになるため、用心しろと言う内容でした。
そして、季孫斯は今までの恩を仇で返す仕打ちをしてしまいます。魯の国の先代を祭る祭典の進行役に孔丘を指定しておきながら、別の場所で季孫斯を進行役にした祭典を開き、孔丘に恥をかかせます。これに愛想を尽かした孔丘はこれ以上この国にいることの無意味さを悟り、弟子たちと共に魯の国を出ることにしたのです。
陽虎を討伐した孔丘はその功績で大司空に任ぜられ、益々王宮での発言力が増します。そんな折、少正卯も大司馬と呼ばれる軍事の最高職につき、同じく発言力を増していました。
ある日、斉の国では王妃が亡くなり、国中が悲しみに包まれていました。特に斉の景公は、深い悲しみの中にあり、王妃が腐敗しても埋葬する気配もなく寝床に置き共に眠る日々を過ごしていました。斉の宰相である晏嬰(あんえい)は、王のそんな様子を咎めますが言うことを聞いてもらえず、王妃を生き返らせる祈祷師を呼んで来るから、少し外に出ていてほしいと嘘をつきその内に王妃の亡骸を運びだしました。しかし、その嘘が露呈し、景公の怒りをかって景公は独裁的な、判断を下すようになります。
斉は国力で魯国を圧倒していましたが、周辺諸国の影響で攻める事ができない状況でした。それにも関わらず、景公は魯国を陥れるために無理な要求をする会盟を開くことにします。晏嬰は諌めますが、聞いてもらえず会盟は始まってしまいます。会盟は斉国内の峡谷で行われ、すぐには脱出不可能な地であり、孔丘は嫌な予感がしていました。景公はまず要求として、魯国と斉国の国境沿いの4国をこちらに譲ってもらえば同盟を結ぶという大胆な提案をします。しかし、そんな要求は飲めるはずがなく、魯国側は断りますが、更に景公は断れば斉国が侵略するという脅しをかけます。話し合いは進むはずはなく、主催の斉国は休憩のためと躍りを披露させますが、女性のなかに女装をした男性を見つけた孔丘は、その男をめしとり、背中に忍ばせた細身の剣を取り上げ、「これはなんだ!」と斉国側を、糾弾し斉国側はシラを切り通そうとしたのですが、孔丘は無礼者の始末は礼にならい、そちらの方でするべきだと凄み、斉国は仕方なく処罰をさせます。更に、孔丘は周辺に忍ばせていた自軍の伏兵2千で辺りを囲みます。驚く斉国側に対して、孔丘が言います。「それでは、魯国側の要求を言います。50年前に斉国により奪われた2つの町を返してほしい」と。先程の刺客による魯王(定公)と孔丘の暗殺失敗により立場を失ったばかりか、回りを魯の兵に囲まれた斉国側は提案を呑むしかなく、魯国側の外交的な勝利でこの会盟は終わります。国内へ帰った魯国側の一行は、孔丘の見事な対応を褒め称え、国の最高裁判官である大司寇に任じます。
『壮年期 魯国出奔まで』
ある日、子路と冉有と子貢は兵の訓練後に、自分の資金で酒を買い兵をもてなしました。それを聞いた孔丘は、兵の私物化が魯の国力の衰退をまねいたからと、その三人を厳しく咎め、精強に育て上げた兵達を大司馬の少正卯に引き渡すように言います。子路たちは反対しましたが、孔丘の意思は固く、兵権は少正卯のものになりました。
兵を返すやいなや、少正卯は淑孫氏と孟孫氏と共謀し魯国の都である曲阜(きょくふ)に攻めこみ、定公と孔丘を亡きものにしようと画策します。季孫斯と孔丘はこれに対抗し曲阜を守るのですが、少正卯の軍は5000に対し、孔丘は近衛兵のみの僅か100程の兵しかなく、戦況は圧倒的に不利でした。また、少正卯は100程の兵を曲阜に忍ばせてあり、開戦間もなく、門は破られ定公と孔丘と季孫斯は季孫家の屋敷のなかに逃げます。多くの敵兵に囲まれ、万事休すのところを、遠方地に派遣されていたかつての精鋭を呼び戻し、帰還した子路の戦車部隊が到着し、包囲を解きます。それを見た淑孫氏と孟孫氏は逃げようとしますが、少正卯はまだ戦車部隊が数百来ただけだから勝算はあると解きますが、理解されず一人曲阜に取り残されたところを捕らわれます。そして、謀反を煽ったとされ罪を一身でかぶり処刑されます。季孫斯宛の一冊の竹簡を遺して。
少正卯がいなくなり、孔丘の唯一の憂いは定公よりも三桓氏の権力が圧倒的に勝っているという事でした。そこで、三桓氏の私兵を魯の軍として参入させることと、三桓氏の領地の城壁を下げる事で権力を定公の元に集約しようと画策します。これには淑孫氏と孟孫氏が猛反発しますが、孔丘は毅然としてこの態度を崩さず、弟子たちもまだ時期尚早だからやめた方がいいと止めますが、孔丘は聞き入れませんでした。間に入っていた季孫斯でしたが、淑孫氏と孟孫氏の讒言に逆らえず、また、少正卯の竹簡にかかれたことが頭から離れませんでした。それは、孔丘は魯の国を自分のものにしようとし、三桓氏を必ず追い出すようになるため、用心しろと言う内容でした。
そして、季孫斯は今までの恩を仇で返す仕打ちをしてしまいます。魯の国の先代を祭る祭典の進行役に孔丘を指定しておきながら、別の場所で季孫斯を進行役にした祭典を開き、孔丘に恥をかかせます。これに愛想を尽かした孔丘はこれ以上この国にいることの無意味さを悟り、弟子たちと共に魯の国を出ることにしたのです。
2018年5月12日土曜日
孔子伝 最終章 前編
『壮年期 陽虎討伐まで』
季孫意如が亡くなるとその家老職の陽虎という人物が公山不狃(こうざんふじゅう)と仲梁懐(ちゅうりょうかい)という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。そこで、少正卯が国王に進言し、今の国情では陽虎達を倒すことはできないので、各国から掃討軍を募り対抗させてみてはどうかと提案し受け入れられます。計6国の軍隊が魯の国に駐留し陽虎の軍を追い払うことに成功しますが、今度は6国の軍隊が魯の国の治安を脅かすことになり、国内は更に治安が悪化します。どうにもいかなくなった少正卯は孔丘を長官にし、問題に対処させてみてはどうかという提案をし、孔丘は弟子たちと相談し、論じてばかりでは本当の大道を得られないのではといわれ、魯の国の長官になることを決意しました。その後孔丘は、まず6国の軍の筆頭である斉の国に使者として、弟子の子貢を遣わせ、まずは門番や家老に賄賂を渡していき、てなずけます。情報を引き出したあと、次に斉国の王妃に近づき斉の国王(景公)が魯にいるのは呉の国の女を欲していて、呉の国のものと仲良くするためである。ということをそれとなく伝え、王妃は美貌で名高くプライドが高いため、本気にしてしまい、景公にそんなことをするなら自殺するといいます。景公も王妃の事を何よりも愛していたため、これを聞かざるをありませんでした。そして、6国の軍は撤退したのです。その後、孔丘は内政を充実するため、町ごとに年寄りを3人集め、そのものを中心に困り事を解決させるようにし、寄り合いをつくります。そして、年貢を引き下げ、民に農耕用の牛を送ったりして農耕改革をし、また子路に命じて兵を組織させたりと職務を次々にこなしていきました。
しかし、そんな状況を面白くないと思った少正卯は、孔丘は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔丘と陽虎達を戦わせ、孔丘が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔丘は陽虎の軍と戦うことになります。孔丘も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔丘軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では孔丘の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、士気は低かったのが原因で、孔丘軍の勝利で終わります。
2018年5月9日水曜日
孔子伝 外伝弐
今回も引き続き弟子たちの紹介をしていきたいと思います。
冉有(ぜんゆう)
兵糧の準備や年貢の取り立てなどを行い前線の味方の後方支援が得意であるが、前線に出て戦うこともあり、陽虎討伐戦では、子路と共に副将として参戦し戦功をあげた。先に門弟になっていた子路のことを兄弟子と仰いだ。また、孔子の晩年に魯の国が呉と越の連合軍に攻められようとしたとき、700の兵を精鋭に育て上げ、国境付近で待機している敵軍2万を夜襲し追い払うことに成功している。
顔回(がんかい)
文才は孔子を凌ぐとまでいわれ、殷の時代の旧字体を読むことができる数少ない人物。名誉栄達を望むことなく、ひたすらに学問の道を追い求め続ける学者筋の性格。また、極めて質素な暮らしぶりをしていたとされ、無欲な人物であった。孔子は自分の後を継ぐのは顔回だと考えていたが、孔子よりも先に他界する。その死を孔子は嘆き悲しんだという。朱子学の四聖と言われている。
曾参(そうし)
孔子から尊敬の念から曾子と呼ばれることもあるほどに、学識、仁愛 に優れた人物。孔子から後継者として認められ、孔子の孫の子思(しし)の教育をしており、その子思から教えてもらっていたのが性善説を唱えた孟子である。朱子学の四聖と言われている。
冉有(ぜんゆう)
兵糧の準備や年貢の取り立てなどを行い前線の味方の後方支援が得意であるが、前線に出て戦うこともあり、陽虎討伐戦では、子路と共に副将として参戦し戦功をあげた。先に門弟になっていた子路のことを兄弟子と仰いだ。また、孔子の晩年に魯の国が呉と越の連合軍に攻められようとしたとき、700の兵を精鋭に育て上げ、国境付近で待機している敵軍2万を夜襲し追い払うことに成功している。
顔回(がんかい)
文才は孔子を凌ぐとまでいわれ、殷の時代の旧字体を読むことができる数少ない人物。名誉栄達を望むことなく、ひたすらに学問の道を追い求め続ける学者筋の性格。また、極めて質素な暮らしぶりをしていたとされ、無欲な人物であった。孔子は自分の後を継ぐのは顔回だと考えていたが、孔子よりも先に他界する。その死を孔子は嘆き悲しんだという。朱子学の四聖と言われている。
曾参(そうし)
孔子から尊敬の念から曾子と呼ばれることもあるほどに、学識、仁愛 に優れた人物。孔子から後継者として認められ、孔子の孫の子思(しし)の教育をしており、その子思から教えてもらっていたのが性善説を唱えた孟子である。朱子学の四聖と言われている。
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