2020年2月5日水曜日

孫子の兵法3

 今回は前回に引き続き孫子の兵法の第7章軍争篇から書きたいと思います。

 『第七章 軍争篇』
 軍争とは、戦場に敵よりも先に到着し、有利な態勢で戦闘に入ることを競う行為を指します。戦場に先着すれば、周囲の地形を把握したうえで要所に布陣できるとか、地勢によっては、伏兵を配置できるとか、あるいは、兵士に休息を与えられるなど、大きな利点が得られます。
 ただし、これをばか正直に実行すれば、文字通り軍を戦場に向かって走らせ、敵軍と先着を競争しようとすれば、補給部隊を後方に委棄せざるを得ず、しかも、戦闘部隊の隊列が途切れて、兵力がさみだれ式にしか戦場に辿り着かず、疲労と混乱のまま戦闘に入って敗北するといった、惨憺たる結末に終わることになるでしょう。
 そこで孫子は、こうした愚直なやり方を避け、決定的に不利な態勢を覆し、自軍野側が戦場に直進・先着でき、不利な条件すべてが利点に転換するやり方を選ぶべきだといいます。
 もっとも孫子自身が語るように、これは極めて高等な戦術であって、その実行は至難の技です。孫子は実際の戦闘において、この戦術を、屈指して勝利を納めたことがあります。孫子が斉の国の軍師として桂陵の役という戦いで見せた「迂直の計」の複雑な仕組みを以下に解説していきたいと思います。

 魏の恵王は、趙の国都・邯鄲(かんたん)を攻略しようと企てた。このとき恵王は、この戦争が趙と戦うだけでは済まず、必ず斉が介入してきて、趙を救援するであろうと読んだ。そこで将軍龐涓(ほうけん)に命じ、八万の兵力でシ丘(きゅう)という地点を占領させた。シ丘は斉軍が邯鄲救援のため西に直進する最短ルートを取った場合、その途上に位置する要地です。つまり、魏としてはここに兵力を配置して斉軍の西進を阻止し、背後を衝かれる恐れを事前に取り除いたうえで、邯鄲を攻囲しようとする戦略です。
 これでは、趙を助けることはできないと考えた斉の威王は、将軍・田忌(でんき)に命じて、救援軍を斉と衛の国境付近に出撃し南下させました。すでにシ丘を押さえられてしまった以上、西方への直進コースを断念し、いったん南に回り込んでから、西北に進もうとの考えでした。
 ところが、この動きを察知した魏の龐涓は、邯鄲から兵力の一部をさき、早々と衛の北部一帯を占領する挙に出た。そこで、斉の田忌は衛を救援して魏の兵力を排除し、あくまで予定どおりに衛の北部を通過して、邯鄲に抜け出ようとした。だが、ここで軍師である孫子(当時は孫ピン)はこの計画をおしとどめ、衛の救援を放棄するよう進言しました。

 以上で、長くなりましたので一旦切ります。次回は孫子の戦略が具体的にどういったものだったのか、書いていきたいと思います。大胆且つ緻密な計算により練られた孫子の計略に驚かずにはいられないでしょう。では、次回お楽しみに。

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