おそらく歴史が好きでない方でも、一度は聞いたことであろう桶狭間の戦いですが、この戦いの結果はご存じの方が多いと思いますが、この戦いの背景などはあまり知らない方もいるのではないでしょうか?今回はこの桶狭間の戦いの背景を解説したいと思います。
・戦力の差
今回の織田信長と今川義元との戦力差がどれほどあったかを示します。
織田信長
年齢:27歳
版図:尾張半国(実質5分の2)
石高:17万石
兵力:4000
世間の評価:うつけ(馬鹿)
今川義元
年齢:42歳
版図:駿府・遠江・三河
石高:100万石
兵力:25000
世間の評価:東海道一の弓取り(尊敬)
これほど国力の差があれば、信長が義元に勝てる見込みはないと言い切れるでしょう。これだけの戦力差を覆した大逆転劇は歴史上類を見ません。また、泣けるのは世間の評価でこれほどまでに評価が低い信長と逆に評価が高い義元の違いから、世間がこの戦いの行く末をどのように思っていたのか想像できます。さらに年齢をみると脂の乗った年齢である義元に若造の信長が勝てるとは到底思わないでしょう。
・心境
続いて心境について解説します。
織田信長
勝てなければ滅亡。家臣団は林通勝を筆頭に籠城戦を主張しているが、籠城をして勝てた戦はかなり少ない。亡き父の信秀も戦は領地の外と訓戒していた。ならば、一か八か攻めるしかない。
今川義元
足利幕府の没落により、足利家、吉良家に次ぐ将軍高家の今川家が上洛することにより世間を収めることを家臣どもから勧められたため、仕方なく上洛。また、田舎の駿府での都をまねた派手な暮らしに飽き始めてきたし、他にたいしてライバルもいないし、天下取りという娯楽を楽しもうと考える。
以上が二人の心境です。このように神経ピリピリだった信長に対して、かなり油断している心境なのが義元です。このような心境の差が雨の助けもあって信長の勝利を呼び寄せたといっても過言ではありません。また、当人だけでなく部下にまでこの心境の差はあったと思います。それが、人数でいう4000対25000の差を埋めたのでしょう。
・戦況
続いて桶狭間に至るまでの戦いはどうであったかを列記します。
①丸根砦攻防戦
初戦は織田方が有利だったが、織田軍400に対して今川軍2500の戦力差は埋めがたく、今川軍の勝利。織田方の将は佐久間大学で戦死。ちなみに今川方の将は松平元康で後の徳川家康です。
②鷲津砦攻防戦
こちらも丸根砦攻防戦と同じ時間にせめられ丸根砦が落ちて間もなく、落城。織田軍数百。今川軍2000。今川軍の勝利。今川方の将は朝比奈泰能。
③鳴海方面遭遇戦
②後に起こった戦い。織田軍の右翼隊500が今川軍の大軍と遭遇し壊滅。織田軍には若き日の前田利家が参加。今川軍の勝利。織田方の将佐々隼人正戦死。
このようにすべての戦いで今川方が勝利を収めています。敗報が信長に飛び込んでくる中で信長や彼の配下はどんどん気を重くしていったことでしょう。心境的にはさらに決死の覚悟が強くなったと思います。しかし、信長は野戦をすることをやめませんでした。籠城すれば必ず負けると信じていたからです。これらの報告も馬上で今川方のもとに向かいながら聞いていました。そしてそれとは逆に今川方は数々の勝利に気をよくして、田楽狭間で昼弁当を食べるという余裕を見せます。しかし、これが信長の奇襲を成功させてしまうのです。突撃したときは強く雨が降った後の少しやんだ状態だったそうです。今川軍は雨を避けるために今川方の本軍の兵5000は散り散りになって防戦がうまくできませんでした。そして信長軍の毛利新助に討取られてしまうのです。
2019年9月22日日曜日
2019年9月18日水曜日
大河ドラマの好演俳優リスト(2007年放送 風林火山編)
私は、歴史が好きですのでよく大河を見るのですが、主役はもちろんの事脇役の方の名演技に感動することがよくあります。そこで今回は、風林火山(2007年)の作品で武将のキャラと俳優のキャラがベストマッチしたケースをご紹介しようと思います。
『板垣信方(千葉真一)』
板垣信方は、武田家の重臣で両職の一人と言われています。武田信玄の父である武田信虎を追放後は、武田家の屋台骨的な存在で中核を担っていた存在です。しかし、板垣は武田信玄が村上義清との上田原の戦いで先方となり初戦は勝利しますが、逆襲を受けて討死します。そんな屋台骨的な頼りがいのある板垣を千葉真一は見事に演じており、最後の討死のシーンは圧巻です。
『宇佐美定満(緒形拳)』
宇佐美定満は上杉家の軍師で、上杉謙信に仕えました。宇佐美定満は上杉謙信の若かりし頃から存在し、謙信を軍事の面でサポートした頼れる切れ者です。宇佐美定満は謙信と抗争していた、長尾政景を暗殺するため野尻湖へ舟遊びに誘い、船底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈み死亡したとされています。そんな忠義に厚い宇佐美定満役を緒形拳が熱演しています。出番はあまり多くないですが、要所をしっかりとしめるような画面に映るだけでも存在感があります。
『上杉謙信(GACKT)』
風林火山で一番異例の抜擢で、なおかつ一番異彩を放っていたのがGACKTでしょう。ミュージシャンが上杉謙信をやることは今後ないと思いますが、それぐらい異例の配役であるのに関わらず、ハマっていました。上杉謙信の神々しいまでに強く、気高い感じがGACKTの人間離れしたような雰囲気にマッチしたのでしょう。今の若い人はGACKTというと芸能人格付けチェックという番組で出ているくらいにしかわからないかもしれませんが、当時は彼のような若い、イケイケのロックミュージシャンが謙信役をここまでこなすことに誰も想像だにしなかったように思え、一番意表をつかれたという印象を強く受けました。特に小田原の戦いで謙信が小田原城の門の前で相手が矢や鉄砲を撃つ中一人酒を悠々と飲み、その姿に相手の北条氏康が「我々はあんなやつと戦っているのか」と嘆き一度も門の外に出なかったというエピソードが一番好きです。
以上で風林火山の好演俳優紹介を終えます。なかなか粒ぞろいな配役で面白かったですが、自分としては武田信玄が残念で、感情移入できなかったのを覚えています。それ以外のキャストは素晴らしかったのですが。。。
『板垣信方(千葉真一)』
板垣信方は、武田家の重臣で両職の一人と言われています。武田信玄の父である武田信虎を追放後は、武田家の屋台骨的な存在で中核を担っていた存在です。しかし、板垣は武田信玄が村上義清との上田原の戦いで先方となり初戦は勝利しますが、逆襲を受けて討死します。そんな屋台骨的な頼りがいのある板垣を千葉真一は見事に演じており、最後の討死のシーンは圧巻です。
『宇佐美定満(緒形拳)』
宇佐美定満は上杉家の軍師で、上杉謙信に仕えました。宇佐美定満は上杉謙信の若かりし頃から存在し、謙信を軍事の面でサポートした頼れる切れ者です。宇佐美定満は謙信と抗争していた、長尾政景を暗殺するため野尻湖へ舟遊びに誘い、船底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底に沈み死亡したとされています。そんな忠義に厚い宇佐美定満役を緒形拳が熱演しています。出番はあまり多くないですが、要所をしっかりとしめるような画面に映るだけでも存在感があります。
『上杉謙信(GACKT)』
風林火山で一番異例の抜擢で、なおかつ一番異彩を放っていたのがGACKTでしょう。ミュージシャンが上杉謙信をやることは今後ないと思いますが、それぐらい異例の配役であるのに関わらず、ハマっていました。上杉謙信の神々しいまでに強く、気高い感じがGACKTの人間離れしたような雰囲気にマッチしたのでしょう。今の若い人はGACKTというと芸能人格付けチェックという番組で出ているくらいにしかわからないかもしれませんが、当時は彼のような若い、イケイケのロックミュージシャンが謙信役をここまでこなすことに誰も想像だにしなかったように思え、一番意表をつかれたという印象を強く受けました。特に小田原の戦いで謙信が小田原城の門の前で相手が矢や鉄砲を撃つ中一人酒を悠々と飲み、その姿に相手の北条氏康が「我々はあんなやつと戦っているのか」と嘆き一度も門の外に出なかったというエピソードが一番好きです。
以上で風林火山の好演俳優紹介を終えます。なかなか粒ぞろいな配役で面白かったですが、自分としては武田信玄が残念で、感情移入できなかったのを覚えています。それ以外のキャストは素晴らしかったのですが。。。
2019年9月15日日曜日
孔子のライバル 陽虎
季孫意如の家老だった陽虎は季孫意如が亡くなると、公山不狃と仲梁懐という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。その状況から孔子を陥れようとしていた少正卯は孔子は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔子と陽虎達を戦わせ、孔丘が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔子は陽虎の軍と戦うことになります。孔子も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔丘軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では長い間、祖国から離れて行軍していたものが多く士気が低下していました。また、孔子の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、孔子軍の大勝利で終わります。
少正卯の目論見は外れて、陽虎の敗走軍は次の一手を思案していると、少正卯が小姜と小虎という陽虎の妻と息子を連れてきました。この二人は、陽虎のことを大変憎んでいるのだということを陽虎に伝えました。陽虎は何か自分にとって不都合なことがことがあるとこの二人に暴力をふるって憂さ晴らしをする癖があり、そのため2人の家族は陽虎のことを心底嫌っていました。陽虎はこのときもいつもと同じようにこの2人に暴力を働きました。そして、この二人をその場に置きざりにし去っていきます。この二人は瀕死の状態で孔子の軍に保護されますが、陽虎はそれから追っ手に追われて魯国から逃げて、宋・晋を転々として、晋の趙鞅に召し抱えられました。趙鞅は全家臣の反対を押し切って陽虎を召し抱えてました。陽虎の統率力と政治能力を高く買ったのでしょう。これを恩に感じた陽虎は趙鞅に忠誠を誓い懸命に仕えたそうです。また、このとき魯の国を出た孔子に再会し、孔子の弟子たちの力を知っていた陽虎は孔子を晋の国に来ないかとさそいますが、孔子は断ったといわれています。
少正卯の目論見は外れて、陽虎の敗走軍は次の一手を思案していると、少正卯が小姜と小虎という陽虎の妻と息子を連れてきました。この二人は、陽虎のことを大変憎んでいるのだということを陽虎に伝えました。陽虎は何か自分にとって不都合なことがことがあるとこの二人に暴力をふるって憂さ晴らしをする癖があり、そのため2人の家族は陽虎のことを心底嫌っていました。陽虎はこのときもいつもと同じようにこの2人に暴力を働きました。そして、この二人をその場に置きざりにし去っていきます。この二人は瀕死の状態で孔子の軍に保護されますが、陽虎はそれから追っ手に追われて魯国から逃げて、宋・晋を転々として、晋の趙鞅に召し抱えられました。趙鞅は全家臣の反対を押し切って陽虎を召し抱えてました。陽虎の統率力と政治能力を高く買ったのでしょう。これを恩に感じた陽虎は趙鞅に忠誠を誓い懸命に仕えたそうです。また、このとき魯の国を出た孔子に再会し、孔子の弟子たちの力を知っていた陽虎は孔子を晋の国に来ないかとさそいますが、孔子は断ったといわれています。
2019年9月12日木曜日
2019年9月11日水曜日
孔子のライバル 小正卯
季孫意如が亡くなるとその家老職の陽虎という人物が公山不狃(こうざんふじゅう)と仲梁懐(ちゅうりょうかい)という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。そこで、少正卯が国王に進言し、今の国情では陽虎達を倒すことはできないので、各国から掃討軍を募り対抗させてみてはどうかと提案し受け入れられます。計6国の軍隊が魯の国に駐留し陽虎の軍を追い払うことに成功しますが、今度は6国の軍隊が魯の国の治安を脅かすことになり、国内は更に治安が悪化します。どうにもいかなくなった少正卯は孔子を長官にし、問題に対処させてみてはどうかという提案をし、孔子は弟子たちと相談し、論じてばかりでは本当の大道を得られないのではといわれ、魯の国の長官になることを決意しました。その後孔子は、まず6国の軍の筆頭である斉の国に使者として、弟子の子貢を遣わせ、外交政策をうまく行い、斉の国をうまく操り、6国の軍を撤退させることに成功しました。その後、孔子は内政を充実させる政策を次々に打ち立てて国力を回復していきました。しかし、そんな状況を面白くないと思った少正卯は、孔子は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔子と陽虎達を戦わせ、孔子が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔子は陽虎の軍と戦うことになります。孔子も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔子軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では孔丘の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、士気は低かったのが原因で、孔子軍の勝利で終わります。
陽虎を討伐した孔子はその功績で大司空に任ぜられ、益々王宮での発言力が増します。そんな折、少正卯も大司馬と呼ばれる軍事の最高職につき、同じく発言力を増していました。
ある日、子路と冉有と子貢は兵の訓練後に、自分の資金で酒を買い兵をもてなしました。それを聞いた孔子は、兵の私物化が魯の国力の衰退をまねいたからと、その三人を厳しく咎め、精強に育て上げた兵達を大司馬の少正卯に引き渡すように言います。子路たちは反対しましたが、孔子の意思は固く、兵権は少正卯のものになりました。
兵を返すやいなや、少正卯は淑孫氏と孟孫氏と共謀し魯国の都である曲阜(きょくふ)に攻めこみ、定公と孔子を亡きものにしようと画策します。季孫斯と孔子はこれに対抗し曲阜を守るのですが、少正卯の軍は5000に対し、孔子は近衛兵のみの僅か100程の兵しかなく、戦況は圧倒的に不利でした。また、少正卯は100程の兵を曲阜に忍ばせてあり、開戦間もなく、門は破られ定公と孔子と季孫斯は季孫家の屋敷のなかに逃げます。多くの敵兵に囲まれ、万事休すのところを、遠方地に派遣されていたかつての精鋭を呼び戻し、帰還した子路の戦車部隊が到着し、包囲を解きます。それを見た淑孫氏と孟孫氏は逃げようとしますが、少正卯はまだ戦車部隊が数百来ただけだから勝算はあると解きますが、理解されず一人曲阜に取り残されたところを捕らわれます。そして、謀反を煽ったとされ罪を一身でかぶり処刑されます。季孫斯宛の一冊の竹簡を遺して。
少正卯がいなくなり、孔子の唯一の憂いは定公よりも三桓氏の権力が圧倒的に勝っているという事でした。そこで、三桓氏の私兵を魯の軍として参入させることと、三桓氏の領地の城壁を下げる事で権力を定公の元に集約しようと画策します。これには淑孫氏と孟孫氏が猛反発しますが、孔子は毅然としてこの態度を崩さず、弟子たちもまだ時期尚早だからやめた方がいいと止めますが、孔子は聞き入れませんでした。間に入っていた季孫斯でしたが、淑孫氏と孟孫氏の讒言に逆らえず、また、少正卯の竹簡にかかれたことが頭から離れませんでした。それは、孔子は魯の国を自分のものにしようとし、三桓氏を必ず追い出すようになるため、用心しろと言う内容でした。
そして、季孫斯は今までの恩を仇で返す仕打ちをしてしまいます。魯の国の先代を祭る祭典の進行役に孔子を指定しておきながら、別の場所で季孫斯を進行役にした祭典を開き、孔子に恥をかかせます。これに愛想を尽かした孔子はこれ以上この国にいることの無意味さを悟り、弟子たちと共に魯の国を出ることにしたのです。
小正卯は死して手紙ひとつで孔子を出奔させることに成功したのです。なかなかの奸雄と言えるでしょう。また、孔子も小正卯にしてやられたと後々も語ったとされ、ずる賢さでは小正卯の方が数段上だと言えるでしょう。
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