2019年9月11日水曜日

孔子のライバル 小正卯

 季孫意如が亡くなるとその家老職の陽虎という人物が公山不狃(こうざんふじゅう)と仲梁懐(ちゅうりょうかい)という家老仲間と謀反を企て魯の国内を乱しはじめます。そこで、少正卯が国王に進言し、今の国情では陽虎達を倒すことはできないので、各国から掃討軍を募り対抗させてみてはどうかと提案し受け入れられます。計6国の軍隊が魯の国に駐留し陽虎の軍を追い払うことに成功しますが、今度は6国の軍隊が魯の国の治安を脅かすことになり、国内は更に治安が悪化します。どうにもいかなくなった少正卯は孔子を長官にし、問題に対処させてみてはどうかという提案をし、孔子は弟子たちと相談し、論じてばかりでは本当の大道を得られないのではといわれ、魯の国の長官になることを決意しました。その後孔子は、まず6国の軍の筆頭である斉の国に使者として、弟子の子貢を遣わせ、外交政策をうまく行い、斉の国をうまく操り、6国の軍を撤退させることに成功しました。その後、孔子は内政を充実させる政策を次々に打ち立てて国力を回復していきました。しかし、そんな状況を面白くないと思った少正卯は、孔子は魯の国の実権を握ろうとしていると讒言し、三桓氏を言葉巧みに操り、孔子と陽虎達を戦わせ、孔子が負ければ背後から襲い亡きものにしようと画策します。そして、孔子は陽虎の軍と戦うことになります。孔子も負ければ自分が味方に殺される事を承知で決死の戦いを挑みました。数では1/10程しかなく、圧倒的に不利な孔子軍でしたが、弟子の子路に訓練させた兵は精強であり、陽虎の軍では孔丘の善政に心引かれ脱走兵が相次ぎ、士気は低かったのが原因で、孔子軍の勝利で終わります。

 陽虎を討伐した孔子はその功績で大司空に任ぜられ、益々王宮での発言力が増します。そんな折、少正卯も大司馬と呼ばれる軍事の最高職につき、同じく発言力を増していました。

 ある日、子路と冉有と子貢は兵の訓練後に、自分の資金で酒を買い兵をもてなしました。それを聞いた孔子は、兵の私物化が魯の国力の衰退をまねいたからと、その三人を厳しく咎め、精強に育て上げた兵達を大司馬の少正卯に引き渡すように言います。子路たちは反対しましたが、孔子の意思は固く、兵権は少正卯のものになりました。
 兵を返すやいなや、少正卯は淑孫氏と孟孫氏と共謀し魯国の都である曲阜(きょくふ)に攻めこみ、定公と孔子を亡きものにしようと画策します。季孫斯と孔子はこれに対抗し曲阜を守るのですが、少正卯の軍は5000に対し、孔子は近衛兵のみの僅か100程の兵しかなく、戦況は圧倒的に不利でした。また、少正卯は100程の兵を曲阜に忍ばせてあり、開戦間もなく、門は破られ定公と孔子と季孫斯は季孫家の屋敷のなかに逃げます。多くの敵兵に囲まれ、万事休すのところを、遠方地に派遣されていたかつての精鋭を呼び戻し、帰還した子路の戦車部隊が到着し、包囲を解きます。それを見た淑孫氏と孟孫氏は逃げようとしますが、少正卯はまだ戦車部隊が数百来ただけだから勝算はあると解きますが、理解されず一人曲阜に取り残されたところを捕らわれます。そして、謀反を煽ったとされ罪を一身でかぶり処刑されます。季孫斯宛の一冊の竹簡を遺して。
 少正卯がいなくなり、孔子の唯一の憂いは定公よりも三桓氏の権力が圧倒的に勝っているという事でした。そこで、三桓氏の私兵を魯の軍として参入させることと、三桓氏の領地の城壁を下げる事で権力を定公の元に集約しようと画策します。これには淑孫氏と孟孫氏が猛反発しますが、孔子は毅然としてこの態度を崩さず、弟子たちもまだ時期尚早だからやめた方がいいと止めますが、孔子は聞き入れませんでした。間に入っていた季孫斯でしたが、淑孫氏と孟孫氏の讒言に逆らえず、また、少正卯の竹簡にかかれたことが頭から離れませんでした。それは、孔子は魯の国を自分のものにしようとし、三桓氏を必ず追い出すようになるため、用心しろと言う内容でした。
 そして、季孫斯は今までの恩を仇で返す仕打ちをしてしまいます。魯の国の先代を祭る祭典の進行役に孔子を指定しておきながら、別の場所で季孫斯を進行役にした祭典を開き、孔子に恥をかかせます。これに愛想を尽かした孔子はこれ以上この国にいることの無意味さを悟り、弟子たちと共に魯の国を出ることにしたのです。

 小正卯は死して手紙ひとつで孔子を出奔させることに成功したのです。なかなかの奸雄と言えるでしょう。また、孔子も小正卯にしてやられたと後々も語ったとされ、ずる賢さでは小正卯の方が数段上だと言えるでしょう。

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