2019年9月5日木曜日

孔子の母 顔徵在

今回は孔子の母を紹介したいと思います。孔子の母である顔徵在は、斉国の出身で家族が軍に皆殺しにされて仇討ちのため人殺しをして、処刑されるところでした。冒頭から壮絶ですが、そんな顔徵在を熊伯(ゆうはく)という楚国の特使に奴隷として使いたいからと命を助けられます。しかし、顔徵在は家族を失った悲しみから、命の恩人の熊伯に心を開くことはありませんでした。そんな折り、熊伯が楚国と斉国で弱小である魯国の分割統治をしようと企みます。しかし、この企みは、少数部隊で潜入していた孔叔梁(こうしゅくりょう)の耳に入り、熊伯を暗殺しますが、孔叔梁も傷つきます。顔徵在はその孔叔梁を懐抱しながら、魯国へと一緒に向かうことになります。目の前で傷ついている人を放っておけない良心の持ち主であったのでしょう。途中雪が降り、山賊に襲われそうになりながらも、少しずつ歩みを進め、なんとか無事魯国にたどり着くことができました。孔叔梁には、妻と子供がいたのですが、孔叔梁の功績により、魯国より顔徵在を内縁の妻として住まわせ、魯国の平民の身分を与えられました。そして、子供を授かります。それが後の孔子になります。その数年後、孔叔梁は戦に敗れ命を落とします。孔子は物心ついたときから、母親である顔徵在一人の手で育てられました。顔徵在は立派であった父親の子であることに誇りを持つようにと、孔子が10代のときに各国へ旅に出て世界を見るように言います。そして、数年間各地を旅して帰ってきた頃に顔徵在は重い病に臥せってしまいます。孔子は悲しみますが、顔徵在は気丈に振る舞い、孔子に「男たるもの人前で涙を見せるものではない」と叱ったそうです。そんな顔徵在もついに病に命を落とします。孔子は、母の遺言である父と同じ墓に入れてほしいという願いを叶えるべく、母の亡骸を棺にいれたまま、魯国中を歩き回り、孔叔梁の墓はどこですか?と聞いて回りつづけ、国中で噂になるようになります。そんな噂を聞き付けた、魯国の大臣が孔子の孝行ぶりに感心し、顔徵在の亡骸を孔叔梁と同じ墓に入れたそうです。孔子は、母親の慈悲深さと父親の忠義心を受け継いだ立派な青年に育っていきました。そして、顔徵在は自分の育てた息子に自分の望みを叶えてもらえたのでした。

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