2019年9月8日日曜日

孔子の上司 季孫意如

 今回は孔子の上司である、季孫意如(きそんいじょ)を紹介します。季孫家は魯の国の王族の家柄です。季孫家はその中でも三桓氏の筆頭です。三桓氏とは魯の国の王族の家柄の者を指し、季孫家以外にも孟孫(もうそん)家、叔孫(しゅくそん)家があります。季孫意如と孔子とのはじめの接点は、孔子が若い頃に母親の亡骸を遺言通り父親のお墓に入れてやりたがっていましたが、母親が妾であるために、墓の場所を教えてもらえずにいたときになります。魯の王宮では孔子の噂が広まっていました。こんな乱世に親孝行な奴だと孔子を誉めた人物がいました。三桓氏筆頭の季孫意如(きそんいじょ)です。季孫意如は孔子の父である孔叔粱の墓の場所を孔子に教え、また孔子に官職を授け、倉庫を管理する委吏(いり)にします。その恩に報いるため、孔子は持ち前の誠実さと学識で実務をこなしていくうちに借金の帳簿に誤りがありことを知ります。当時、魯の王様襄公は三桓氏に借金をしているため、三桓氏の顔色を伺わなければいけない立場にありました。しかし、帳簿の記録を元に遡っていくと、実際は三桓氏が襄公に借金をしていたのです。それを上司である季孫氏に報告したのですが、当然受け入れられる訳もなく、季孫氏は襄公に知られる前に記録のすべてを焼き払い、襄公に真実を伝えられることはありませんでした。季孫氏は孔子に要職を任せると優秀であるがために、自分を脅かす存在になるのではないかと孔子のことを恐れたため、乗田という羊飼いの職につかせることにしました。しかし、しばらくすると孔子は母親の二つ目の遺言を果たしたいので宋にいかしてほしいと願い出ます。孝行者の孔子の更なる孝行の願いでもあるので、認めざるをえないことと、認めてあげれば自分の仁者としての名声も上がると判断した季孫氏は承諾します。

 孔子が無事二つ目の遺言を叶えて戻ってくると、魯の国は腐敗しきっていました。闘鶏が国中で行われており、しまいには王と三桓氏らによる全財産をかけた闘鶏が行われようとしていました。しかし、これは互いにいかさまが露見し無効になります。そんな騒動が行われるなか、魯の王様襄公は三桓氏の陰謀にはまり国を追い出されてしまいます。襄公についてくるのは古くからの家来を含めても、孔子とその弟子たちだけでした。そして、年老いていた襄公はとなりの斉国で息絶えます。孔子に「誠の忠臣はそなただけだったな」という言葉を囁いて。襄公の亡骸を魯の国に運ぶと、三桓氏たちは声を揃えて「何を今さらもどって来たのだ。まるで、私たちが悪いことをしたみたいではないか」という言葉をかけたのですが、季孫意如だけは「よく戻ってきた。我々が間違っていた。」と言ったそうです。この頃、季孫意如は病に臥せっており、襄公を追放した後にさらに魯の国が混乱したことに責任を感じていました。そして孔子に「私の息子を導いてくれ」と遺言し、息を引き取ります。孔子は「あれほど聡明な季孫様でも見誤ることがあるのか。」と嘆いたと言われています。また、遺言通り季孫意如の息子の後見人になっていきます。

 優秀な人物でも回りが悪いと本領を発揮できないものです。孔子が認めた人ですし、僕も季孫意如は優秀な人物で、かつ無名の孔子を賞賛したところに慈悲もあった人であると思います。

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