2019年9月6日金曜日

孔子の父 孔叔梁

今回は孔子の父、孔叔梁(こうしゅくりょう)について紹介したいと思います。孔叔梁は魯の国の将軍です。ある日孔叔梁は魯の国の王襄公に命じられ、斉の国に潜入していました。楚の国の特使である熊伯に不穏な動きがあり、熊伯の行動を監視し、ことによっては暗殺する任務についていました。しかし、この任務はとても危険を伴う任務でした。なぜなら、斉の国は魯の国と敵対しており、潜入していることがばれてしまえば、すぐに斉の国の兵がやってきてしまいます。さらに、孔叔梁の軍は潜入任務のため、少数しか連れていませんでした。そのため、戦いになれば万が一にも勝てる見込みがありません。そんな中、熊伯が睨んでいた通り、楚の国と斉の国が手を組んで魯の国を攻め立て、分割統治をしようという話を始めました。それを聞いた孔叔梁は、直ちに兵を動かし熊伯を倒しましたが、斉国の兵が援軍を呼びに宮殿へ駆けていきました。そして、援軍が直ちにやってきて孔叔梁の一隊を襲撃しました。孔叔梁の一隊は、それにより壊滅し、孔叔梁も瀕死の重傷を負いました。その傷をみた、顔徵在という熊伯の奴隷は何を思ったのか、孔叔梁をその場から連れ出し、魯の国に向けて逃亡しました。なんとかその場からは逃れたものの、季節は冬で極寒の中大の男を抱えての足取りは重くなかなか、歩みを進められませんでしたが、なんとか魯の国にたどり着き、孔叔梁は命を取りとめることができました。彼らはその後、尼丘山で婚約を交わし、子供を授かります。その子供が孔丘といい、後の孔子となります。そして、孔叔梁は自分のもうひとつの家族があるみだったので、顔徵在は妾になるのですが、顔徵在に平民の位を授けてもらうように進言しました。孔叔梁は先の熊伯暗殺の功で称賛されていたため、進言は受け入れられました。その後の戦いで孔叔梁は戦死しますが、孔叔梁の勇敢さは子供の孔丘に引き継がれました。そして、母の慈悲深さも受け継がれて、子の孔子は魯の国を代表する偉人となってゆくのです。

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